2008年04月30日

マネーの電子化についての考察


だいぶご無沙汰でございます。上のニュースについて。ついにというか、なんというか。胸が痛みます。自分が最後に上野動物園でパンダを見たのはいつだったかなあ…。お客が来てもずっと寝ていたような気がするなあ。なんてことをふと思ってみたり。どうぞ安らかに。

さて。

先日スイカ決済のできるタクシーというものに乗りました。配備されるとは聞いていたものの、実際に乗ったのはそれがはじめてだったので微妙に興奮し、当然のごとくスイカで支払いました。しかし運転手さんもまだ慣れていなかったのか、タッチすれどもエラーが出て、あれこれ操作した後に再度のタッチでどうにか支払われたような音がした。しかし領収証をもらうと、どうもおかしくて、支払うべき金額よりも少なく決済されているんですな。めんどうくさいし、まあ得したのかもしれないので何も言いませんでしたが。

エディやスイカ、ナナコなど、各陣営が勢力の伸張に努めていることもあり、あっという間に暮らしのさまざまな場に普及したかに見える電子マネー。ユーザーにとっても手軽で便利だし、チャージできる金額も比較的小額なので万一の場合でもそこまで大きな被害にはつながらない。

さらにさまざまなインセンティブが働くことも魅力。わしの使っているスイカはオートチャージによって、JR東日本のクレジットカードのポイントが貯まる。それゆえ現金かスイカか、決済手段が選べる場合は、間違いなくスイカを使うと思います。家の近くのコンビニにちょっと買い物に行くときには、財布は持たずにスイカの入ったカード入れだけ持っていくことも多いです。

そんな電子マネーの普及に加えて、ネット銀行の創設や株券の電子化などもあり、金銭的価値がどんどん電子的にやりとりされていく世の中になっております。そんな中にあって、ふと思ったのが、改めての現金の大切さ。スイカにある程度の金額が入っていても、それ自体にあまりありがたみを感じる人はいないと思います。あまりリアリティがないですからね。

お金にリアリティが感じられないということは、結局、支払う・受け取る関係のリアリティが感じられないということにつながる。現金を手渡すことと電子マネーをタッチすることの間には、ものすごくコミュニケーションの隔たりがあるような気がする。

たとえばですけど、お正月のお年玉をあげるというときに、子供が端末を持っていたとして、スイカをかざしてピッとやったのではどうもおかしい。結婚式や葬儀の際の祝儀・不祝儀もそうだと思いますが、手渡すことでのみ成立するコミュニケーションがある。ある種儀礼的な行為に関することですね。仮にこれがお金の手渡しが必要な場面の最上位に位置するとしたとき、今の感覚では真逆に位置するのが、乗り物の料金ということになるのでしょうか。乗り物インフラ運営者と客との間に密な関係性がないために、支払いもあっさり済ませて問題がないパターン。電子マネーの持ち味がフルに生かせる場面ですな。

まあそれら両極の間に、いろいろなお金の支払いにまつわるコミュニケーションがある。これが、今の世の趨勢で、日常の決済手段がどんどん電子化の方向に傾いていってしまうことが、必ずしもよい流れとは思えないんですね。「自分が何かをして得た対価として受け取るお金」という意味において、電子マネーは現金より明らかに劣る。電子マネーの普及は、お金を受け取る側に対して、お金を得ることの意味を感じるコミュニケーション機会を失わせるというデメリットになりはしないか。

相手と対面して、対価たる現金を手渡しされる意味は少なくないと思います。分かりやすいのが給料でしょう。大きい会社では無理かもしれないけど、毎月の給料などは、できれば現金を手渡しで、さらに可能ならば社長から渡されるべきではないでしょうか。そりゃあ口座に振り込む方が手間もかからないのだろうけど、ひとこと労いの声をかけつつ給与袋を手渡すことで、受け取る側の気持ちのあり方はずいぶん違ってくるはず。毎月が無理なら、せめてボーナスの時くらいはやってもよいのでは。大きい企業でこれがやれたら、社員のモチベーション管理がぐっと楽になるのではないかと思います。まあこれは電子マネーとは直接は関係ないけど。

そんなことは言いつつも、やっぱり便利な電子決済。ちなみにわしが個人的に電子マネーを是非導入していただきたいと思っているのが、寺社仏閣などの観光名所。入館料・拝観料を支払って、最初から半券部分の切り取られた入場券を形だけ渡されるのは、正直紙の無駄だと思う。ぜひ電子マネーでピピッと入場できるようにしていただきたい。特に修学旅行シーズンや観光シーズンで混み合う時には、スムーズな入場にもつながってストレスも感じずに済みますしね。

とまあ、今回はこんなかんじです。それではまた。よい連休をお過ごしください。
posted by サイダー at 21:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月14日

青森恐山のおもいで


どうもこんにちは。上のニュースについて。地球温暖化のことを正式な教育カリキュラムに組み込もうという話。自分たちが生きていけなくなるという感覚の切実さが日本とは違うように感じました。

さて、「桜のおもいで」という記事を書いた時にちょっと触れた青森の「恐山(おそれざん)」。日本に観光名所多々あれど、これほどエッジの立ったスポットも珍しい。折角なので一発書いてみようかと思います。

まず恐山とはどこにあるのか。青森県を頭に描いていただきますと、上の方に角が二つ突き出ております。その右の角の先の辺りに、お山がありまして、それが恐山です。ちなみに角の先端は、高級マグロで有名な「大間」でござんすよ。まあ、早い話が下北半島にあるってことです。

わしが行った時は、半島に至る手前の野辺地(のへじ)という駅からレンタカーで北上したのだけど、最寄りの駅は下北駅です。と言っても恐山に行くためには歩きではちょっと厳しいので、タクシーなどを利用しないといけません。

下北市街をしばらく走っていると、うっそうと木々が生い茂るゾーンに突入するのですが、それが恐山への入り口。道もくねくねしていて、雰囲気は陰鬱な箱根。対向車線をややはみ出しつつ走っていると、車中に異変が。どこからともなく硫黄の臭いが漂ってくるのだ。今流行の硫化水素自殺ってこんな感じなのかしら、と思ったか思っていないかは別として、極めて危険な状況下でクルマを運転していたのは間違いがない。

そうこうしているうちに、木々のゾーンは終了し、鼻か脳がイってしまったのか硫黄の臭いも感じなくなった。そして目の前には小高い灰色の山と湖。ガイドブックにも書いてある写真撮影スポットがあったので、クルマを停めて記念に一枚。湖がきれいに見える小さな橋なのだが、恐るべきことにこの世とあの世を結ぶ橋なのである。とんでもないところで撮ってしまった。しかもクルマの外は硫黄の臭気が半端ではないのだ。真面目にあちらに逝ってしまいかねない。

橋からちょっと先に行ったところには、もう「ザ・恐山」という迫力に満ちた菩提寺が見えている。駐車場にクルマを置いて、入場料500円を支払い、お堂の門をくぐって中に入る。白っぽくざらついた世界が広がっている。何を祈ったらよいものかよく分からないが、とりあえずお賽銭を入れてお参りを。本堂の脇には絵馬がかけられているところがあり、ずっと雨ざらしにされていたのか、すっかり色のあせた無数の絵馬が微かに風に揺れている。失礼ながら、どんなことが書いてあるのだろうと近づいてみると、嫁がとてつもなく衝撃的な絵馬を見つけてしまった。その内容は、とても軽はずみにここにかけるようなものではない。だいたい絵馬というものは「受験に合格しますように」とか、前向きなお願いが書いてあるものであるが、これは神仏も聞き届けるべきか否か頭を抱えて悩んでしまいそうな、極めて後ろ向きなお願い事であった。嫁とわしと、二人してあまりのショックにしばらく何も言えないでいたが、少なくとも真面目に恐山を訪れる人にとって、ここがどんな場所なのか分かったような気がした。

本堂の裏手というか横の方には、荒涼とした灰色の山。最初に遠くから見た山がこれである。見たことのない背の低い枝ばかりの植物と、腰の高さほどに小高く積み上げられた石の山。そして、いくつかの石山のてっぺんでは、からからとさびしげな音を立てて風車が回っている。そんな光景が、ずっと先まで続いているのである。これが「賽の河原」というものであろうか。死者を供養するための石の山。風車は幼くして亡くなった子供の霊に供えられるものだと聞いたことがある。

湖の傍の砂浜に足を運んでみれば、砂に混じって硫黄の塊がごろごろと転がっていた。浜に寄せる波も、硫黄分を含んで黄色く濁っている。とても普通の動植物が生きられる環境ではない。ふと顔を湖面から上げてみれば、湖の向こう側には、我々がクルマで通ってきた道や山々が見える。見えるのだが、どうにも違和感があるのだ。ついさっき通ってきた場所なのに、だいぶ遠くにあるような。いや、遠くにあるというよりは、別の次元に存在しているような。つまり、決して冗談ではなく、あたかも自分が「あの世」の側にいて、「この世」を見ているような気がしてくるのである…。けれどそれは、一刻も早くこの場から立ち去らねばというような恐怖感を伴うものではなく、どちらかといえば妙な心の落ち着き、もっと言えば安堵感に近い心理状態と共にもたらされた感覚であった。あの絵馬と硫黄の臭いと風車の音に感覚がやられてしまったのであろうか。

実はこれと同じような心理状態をかつてインドで味わったことがある。それはガンジス川の畔の街バラナシに滞在していた時であった。バラナシの街はガンジスの北の川沿いに広がっているが、ボートで川の向こう岸、つまり南に連れて行ってもらえるということで、試しに行ってみたのである。その向こう岸から眺めたバラナシの街は、川を隔てた向こう側というにはあまりにも遠くに感じられ、「もう戻れないかも…」という漠とした不安も感じたのであった。ちなみにボートの船主によれば、やはりガンジスの南岸はヒンズー教でも「あの世」に当たる場所らしく、ごく一部の身分の人しか住んでいない(というか、そこしか住めない身分)という話であった。ちなみに「あの世」は動物のものかはたまた人のものか、無数の乾いた白骨が散乱していたり、首のないワラ人形が落ちていたりと、あまりにも「……」という状況であった。

とにもかくにも、人の死と密接なつながりを持つ場所というのは、この世であってこの世ではない、ただならぬ雰囲気を持っているということがよく分かりました。少なくともあの地に立ったときの感覚は、一度味わったら死ぬまで忘れることはないでしょうねえ…。恐山の名は伊達じゃない。恐るべき山でございました。
posted by サイダー at 08:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月08日

観劇評 ポツドール「顔よ」


まずは気になるニュースを。インドのコメ輸出規制。農業大国が自国民に食べさせる食糧の心配をし始めています。それにしてもインフレ率6.68%とは。日本の食品値上げは、まだかわいいということでしょうか。そうでもないかな。

さて。

最近ろくに舞台を見る時間がなかったのですが、久々に行ってきました、ポツドール『顔よ』。ああうれしい。というわけで、今回はそのレビューを。まだ公演が終わらないうちに記事が書けるのはうれしいですね(初めてかな)。逆に一部ネタバレになってしまうのは、ご了承くださいね(核心は書きませんので)。

今回のポツドール、期待以上でした。前回見た『女の果て』も面白かったのですが、それを上回る内容。『顔よ』というタイトルからも察しがつくとは思いますが、自分の顔に悩み、人の顔に嫉妬し、という、人類が顔を持って生まれてきた以上切っても切れない心の動きについて挑んでおります。

ざっくりとあらすじ。アパートの大家を営む若い夫婦。夫の妹は男に悪ふざけで火をつけられ、顔に醜い傷を負う。心に傷を負った彼女の元に、加害者の男たちが謝罪に訪れる。またアパートの住人たちも、自分の彼氏彼女や他人を見ては、顔にまつわるさまざまな思いを募らせていく。そして大家夫婦にもあることが起こる…。

いろんな人が出てきます。自分の顔に自信があるけどひどい顔の男、肌の出来物を気にして自分の顔に自信が持てない男、かわいいし自分でもそれを自覚している女、自分がかわいくないことを分かった上で達観している女、そしてかわいかったのに顔に傷を負ってしまい心を荒ませる上記の妹、などなど。彼ら彼女らすべては、基本的に「客観的に見た顔のレベル」と「主観的な自己の顔レベル認識」と「性別」の掛け合わせでできている。「男×客観醜×主観美」という感じでしょうか。(まったくの余談ですが、「不細工なんだけど自分のことをカッコイイ・かわいいと思っている役をやってくれ」と言われた役者の心境って、どんなもんでしょうね)

さて、そんな人物同士が、自分の顔をどう捉えた上で、相手に対してどう接しているのかがこの芝居の見ものです。自分の顔に自信がない男(男×客観醜×主観醜)は、自分の彼女(女×客観美×主観美)としょっちゅう喧嘩をするものの、すがりつかざるを得ない。彼女も自分の絶対的な優位を自覚しながら生きている。逆に自分に自信のある男(男×客観醜×主観美)は、自分の彼女(女×客観醜×主観醜)を他の女と比較してその容貌をけなす。彼女はそんな男の言動に傷つきつつも、彼の醜い顔を含め高い次元で彼を愛している。そんな心の広い彼女(女×客観醜×主観醜)であっても、事故で顔に傷を負った友人(女×客観美→醜×主観美)に対しては、同性のプライドなのか、頑なに彼女の美を認めようとしない。などなどなど。

このあたりの人物同士のやりとりが、実に面白く、笑えて納得もできて、さすがだなあと思うところです。ポツドールの芝居って毎回「性と暴力」が強調されがちだし目も引くのですけど、会話のやりとりのさりげなさとかそれらしさが、この劇団の真骨頂だと思いますね。

しかし、それよりも何よりも、今回は話の構成がとにかく抜群だった。ラストのラストはもう本当に脱帽。この舞台の登場人物たちは、一般的に考えれば不自然なほどに顔にまつわる話ばかりしていますが、それがいったいどうしてなのか、非常に明確な解答が最後の30秒で提示されます。それを見たときのショックとも感動とも似付かぬ、「うおおおおっ」という心のほとばしりは半端じゃないですぜ。気持ちよく「やられたっ」と言える感じ。本当は全部ばらしたいくらいなんですが、それはやめておきましょう。とにかく終幕の快感を味わうためにも、ぜひ一度見に行くことをお勧めしたい舞台です。まじです。


ポツドールvol.17『顔よ』
4/4〜13 下北沢 本多劇場

脚本・演出 三浦大輔

出演
米村亮太朗
内田 慈

古澤裕介
白神美央
井上幸太郎
脇坂圭一郎
安藤 聖
岩瀬 亮
松村翔子
横山宗和
後藤剛範

片倉わき
新田めぐみ
梶野晴香

照明 伊藤孝
音響 中村嘉宏
舞台監督 矢島健
舞台美術 田中敏恵.
衣裳 金子千尋
映像 冨田中理
写真撮影 曳野若菜
宣伝美術 two minute warning
制作 木下京子
posted by サイダー at 00:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 舞台演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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