2010年08月17日

懲りずにまた。

昔から、妙にひねくれたところがあった。
世の中でこれが流行っている、と言われているものは、買ったり見たりしない。
小学校の頃教室の皆が「たまごっち」に熱中したときも、高校の頃「タイタニック」を2度見た、3度見たと言って盛り上がっていたときも、クラスの半分以上が携帯電話を持ち始めたときも、自分はノータッチだった。
結局携帯電話は大学進学と同時に持つことになったのだけれど。

世の中で話題になっていることを疑っているわけではないけれども、醒めた目で推移を見るだけの自分がいる。
いや、もっと言えば、安易にその流れに乗る行為に一種の恥ずかしさを感じる自分がいるのだ。
ほんとは流れに乗りたい、いやそこまででもない…自分の中で小さく葛藤する局面もあるが、結局踏み切ることはない。
はっきり言って「めんどくせえ」性格なのだ。

そういう性格であるからして、近頃一世を風靡している「iPhone」も所有していないし、「ツイッター」もやったことがない。
「mixi」の招待も無視し続けてきた。
友人知人らから「iPhone」が如何に進んだ携帯電話かプレゼンされ、「ツイッター」こそ次世代コミュニケーションの鍵を握るツールであると延々説かれること幾たび。
その都度、「確かに」「やってみてもよいかのお」などと考えるものの、決まって結論はノー。

ノーであるだけならまだしも、いったい脳のどのスイッチを押したものか、一年以上前に封印したブログなんぞを今日に至ってまたやろうとしている始末。
140文字のつぶやき社会に喧嘩でも売ろうというのか。
いやまあ「あんな断片だけの会話のやり取りでいったい何が伝わるんじゃ!」とか思ったときもあったけども。

まあ例によってあんまり深くは考えておりません。
うー、強いて言えば、最近仕事の上でも私生活上でも、ある程度まとまった単位の文章をしたためる機会が少なくなったので、文章の筋トレのようなつもりでやろうかな、と…。
ほんの出来心なんです。
って、別に誰に咎められているわけでもないのに、なんでこう言い訳じみたことを書いてしまうのだろう。
このむなしい言い訳人生よ。

そんなわけで、まだ読んで下さっている方がいらっしゃったら、またどうぞ宜しくお願いいたします。
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2009年05月24日

人の思い出と巡るインドの旅A


だいぶ暑い日が続きますね。新型インフルエンザの感染者が国内で300人を超えたそうです。「まあ大丈夫だろう」と思う気持ち半分、小さい娘がいるので、「この子が罹るようなことは避けないと」と思う気持ち半分。そんなわけで、かねて計画していた親子での遠出も諦めることになりました。娘の安全には代えられない、と。

そんな娘なのですが、最近家に招くお客が口々に、「父親(わし)に激しく似ている」と言います。父親に似ている娘は幸せになるらしいです。以前から「この子には黒木メイサさんのような美女に育ってほしい」と強い願望を抱いていたわしですが、自分の顔にひとつも黒木メイサ的要素を見出すことができず、軽い眩暈を覚えてしまいました。まあいいんです、元気に育ってくれれば(笑)。

上のニュースについて。汚職問題で検察の追及を受けていた韓国の盧武鉉大統領が自殺したという話題。韓国では、「元」とか「前」を付けて呼ばれるようになった大統領が、汚職で検察に挙げられることが頻繁に起きているような気がする。盧泰愚元大統領の事件とか、いまだに覚えています。そんなせいか、韓国の政治家というと、カネに汚いというイメージがなんとなくあります。偏見だと思いますが。

崖から飛び降りて死ぬという行為は、当人は死んでしまったわけですから、もはや世論を味方につける「パフォーマンス」の領域を超えています。一身に降りかかった恥辱を雪ぐための最期のメッセージとも取れる。当然、検察のやり方を非難したり、盧氏に同情したりする意見も出てくると思います。けれど、そうであるからと言って、完全に盧氏がシロであるとも言い切れない。気になるのは、盧氏が自殺とはいえ「消された」ことが、誰かにとっての「目的達成」になっているのかどうかということ。検察を動かして絵を描いた勢力がいるのかどうか…。誰か教えてください。

さて。インドの旅の記録の第2回目。人の思い出と巡る今回の旅行記、最初に登場していただくのは、現地で会ったインド人の「A氏」。
彼は、このインド旅行でわしが最も世話になった人であり、いまだに頭の上がらない存在だ。先に「現地で会った」と書いたのは嘘ではないけれど、正しく言うなら、日本にいる時から彼のことは知っていた。

前回書いたとおり、わしは一人でインドに行く羽目になってしまった。日本にいるうちから、それはもう不安で不安で仕方なかった。ただ、往生際の悪い性格もあり、一緒に行く相手が見つからないなら何か別の手を打たねばと考え、思いついたのが、「インドに知り合いがいる友人に頼んで、そのインド人にしばらく現地を案内してもらう」という作戦(?)。

とにかく初めての場所なので、初日からしばらくがどうにも不安だ。インドにいる間じゅうとは言わないが、せめて2、3日くらい、面倒見てくれる心優しく頼りになるインド人はいないものか…。何としてもそういう人を見つけよう…。そう、その時のわしは、「補助輪がないと自転車乗れないよう!」とぐずる子供の如く、軟弱ハートの持ち主だったのである。

かくして、「優しいインド人」を知り合いに持っていそうな人物にアタックすることになったのだが、結論から言うとあまり労することもなく、とある知人があっさりと、「優しいインド人」を紹介してくれた。まさに「窮すれば通ず」。リーチ一発ツモである。その知人は国際関係に学問的興味が旺盛だったこともあり、やたらと外国の友達が多い。わしが頼むと「うってつけの人がいるから、直接連絡してみて。こっちからも話は入れておくから」といかにもやり手な匂いのする返事。こうして、紹介されたのが「A氏」なのであった。

「直接連絡してみて」と言われたあと、英和辞書と首っ引きでA氏宛ての電子メールを書いている自分の姿は、思い出すだに恥ずかしい。「何日のいつのエア・インディアの何便で、インディラ・ガンディー国際空港に着きます。初めてお目にかかるので、それとわかるような目印(服装とか)があれば教えて下さい。よろしくお願いします!」…と、要素としてはそれくらいしか伝えていなかったと思うが、ものすごく時間をかけて文章を作っては書き直し、また作っては書き直し……まるで恋する女子中学生の手書きラブレター。けれどメールにこめた必死さでは、思春期の乙女にも勝るものがあったに違いない。と思う。

遠くインドの地で、画面を見ながら「へたくそな英語だなあ」と思ったかどうかはさておき、A氏からの返信はやってきた。文法とか、そういうのはあんまり関係ない、肩の力の抜けた文章で数行、「会えるのが楽しみサ。僕は君の名前を書いたボードを持って、空港の出口で待っているサ!」と書いてあった。なんでこんな変な口調なのかというと、わしがまだ見ぬA氏に、勝手にそんな風にしゃべるイメージのインド人を重ねていたからである。

例の友人から聞くところによると、A氏はネルー大学というインドでも有数の名門大学(日本の東京大学と言っていいくらい)で工学系の研究をしている大学院生らしい。将来有望な若いインド人男性。知的に光る鋭い目、奇麗に整えられた黒髪、凛々しい口髭。まだ見ぬA氏に対する想像は膨らみ、わしの中では彼は相当なイケメン・インディアンということになっていた。

さて、最初にコンタクトしてからというもの、しばらくインドの旅程やら何やらをメールで連絡しあう日が続いた。その間、ビザも取り、バッグに荷物も詰め、トラベラーズ・チェックも入手し…、インド行きの日がだんだんと近づいてくる。A氏を紹介してもらったことだし、旅の不安も解消したかというと、決してそういうわけでもなく。今度は「彼が空港に来なかったとしたらどうしよう」「もしも飛行機が大幅に遅れてしまったらどうしよう」と、一歩進んだところで不安にさらされる羽目になった。結局、出発のその日まで、わしの不安が消えることはなかったのであった。

ついに訪れた出発の日。荷物を確かめ、A氏からのメールの中身をよーく確かめてから、成田空港へ。初めて乗ったエア・インディアは、ファースト・インプレッションから非常に強烈で、得体のしれない香辛料の匂いとともに、「制服を着た野村沙知代」風CAが出迎えてくれた。「うおぅ!」と声が出そうになった。乗客の多数がインド人。バンコクを経由することもあり、タイ人も多いようだ。悲しいかな、ついつい日本人の姿を探してしまうのだが、どうやらわしと同じくらいの歳の日本人もそれなりにいるようだった。「インド旅行の無事=A氏に会える」と深く信じているわしにとっては、とにかく、飛行機が時間どおりにインドに着くことがすべて。祈るような気持ちで、空へ…。

さて、このフライト中もちょっとした話はあるにはあるのだが、そこは省略しよう。話は約10時間後、わしがインディラ・ガンディー国際空港に到着したところから。

とにもかくにも空港には着いた。日本とインドの時差は3時間半。それに従って時計をインド時間にセットし直すと、どうやら30分ほど予定時刻より遅れて到着したことが判明。焦りながら入国審査を受け、不機嫌そうな係官にぽんぽんと判を押してもらい、早歩きで出口へと向かう。A氏はちゃんと待っていてくれるだろうか…。ただでさえ遅れているので急いで行きたいのはやまやまだが、出口に向かう前にやるべきことが一つ。現地通貨への両替だ。これがなくてはこの国で生きていけない。お客でちょっとした行列になっているにもかかわらず、緩慢に応対するスタッフに対してやや苛立ちつつも、とにかく並んで待つ。

待っている間、おそらく同じ便で来たであろう同年代の日本人男性2人に何気なく声をかけてみた。「これからの予定決まっていますか」と。日本国内であれば思いっきり怪しい文句だが、さすがアウェー、「いやー、実は何も考えていなくて」「着いてから決めようかなって」と、会話が成立するのである。やはり心細いインドの旅、「もし良かったら、一緒に動きませんか。知り合いに紹介してもらったインドの人が、空港まで迎えに来てくれているはずなんです」「ええっ」「いいですね、どうしよう」「やー、もしよかったら一緒について行かせてください」「いいですよ、こっちも一人で心細かったので」「すみません、ありがとうございます」…と、あれよあれよという間に、「3名様」になってしまった。

両替を済ませ、やや足取りも軽く出口へ向かう。鉄柵で作られたルートに沿って、英語の書かれた紙を持ったものすごい数のインド人がひしめき、待ち人の名前と思しき言葉を口々に発している。喧騒で混沌としたこの状況、頼りになるのはわしの名前が書いてある紙のみ。眼鏡をかけ、「A氏よ!いてくれ!」と願を懸け、片っ端から探索を開始。これは合格者発表で自分の受験番号を探す学生の気持ちにかなり近いものがある。とにかく血眼で自分の名前を探しているうちに、

「あれも違う、これも違う…ああ、あった!」と、運命の瞬間が!

やや控えめな字でわしの名前が書かれた真っ白な紙を発見。「くわっ」と見開いた眼でその紙の持ち主を見ると、彼もまたその飢えた視線に気がついたのか、「ハーイ」と陽気に声をかけてくれた。おお、A氏、A氏よ!待っていてくれてありがとう!「もののけ姫」ばりに張りつめまくったわしの心が、じわじわっと溶けていく瞬間である。ああよかった…。A氏は同行している2人のことも察したのか、彼らにも気さくに声をかけている。2人にとっても、A氏の姿が神々しく見えているに違いないのだ。

それにしてもA氏の風貌は、これまで想像していた姿を木端微塵に粉砕するくらいにかけ離れていた。彼のルックスをひとことで表すならば、「イケメン」ではなく「鼻メガネ」であろう。丸みのある眼鏡をかけ、優しい表情を絶やさない彼は、全身から気のいいおっさん風なオーラが漂っている。服装も、なんとなくおっさん風だ。

そんな愛くるしいA氏の姿に触れ、ものの3秒ですっかり安心した我々は、空港を出て、彼の友人が運転しているという車に乗り込んだ。時刻は午後9時くらいだったと記憶しているが、空港を一歩出てしまうと、吸い込まれてしまいそうな暗闇が広がる。その中に、夜行性の動物のように、鋭く光る眼をしたインド人たちの姿がちらほらと。もしも一人だったら、きっとこれだけで心が折れてしまったに違いない…。A氏が来てくれて本当に良かったと思う瞬間だ(実はこの空港を出てすぐ、心が折れてしまった人が本当にいた。その人の話は、また後日書こうと思う)。

さて、A氏友人の車は、快調に夜の闇の中をかっ飛ばす。車中では改めての自己紹介を兼ねて、わしら3人が代わる代わるに名前やら日本で何をやっているかなど、たどたどしい英語で話す。
大して面白みもない話のはずだが、A氏はひとつひとつに表情をつけて反応し、いろいろと質問をしてくれた。いい人である。そして話題は「今日これからどうするか」という、日本人3人とも何も考えていなかったけれど、実は結構重要と思しきテーマに移行した。3人でちょっと話をして、意見の一致をみた上でA氏に、「今日は遅いので、ニューデリーに着いたらそのままホテルを見つけて泊まろうと思う。どこか適当なところを教えてほしい」と伝えた。すでにいくつか候補を調べてあったが、現地の人が教えてくれるところの方が安心だと思ったのだ。

「オーケー」と応えるA氏が、頷いてそのあとに続けた言葉は、我々3人にとって意外なものであった。「それだったら、僕の大学の寮に泊まってしまえばええがね」。

…思えばこれが、A氏のホスピタリティ全開のもてなしの幕開けなのであった。彼を紹介してもらった時点で「リーチ一発ツモ」なのだとすれば、ここにきてさらに「裏ドラ」が乗った状態である。果たしてどこまで点数が伸びるのか……、次回、怒涛の後編へ続く!
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2009年05月06日

人の思い出と巡るインドの旅@


ちょっとペースを上げて更新。今日(もはや昨日か)は「こどもの日」ですが、雨降りでぱっとしない天気になりました。そういえばうちの近くの空き地に見事な鯉のぼりが飾ってあるのですが、あれはいったい誰の仕業だろう。

上のニュースについて。ちょっと前の出来事になりますが、米州サミットでのベネズエラのチャベス大統領とオバマ大統領のやりとりが話題になりました。対話の姿勢を示したオバマ大統領に対し、チャベス大統領が「あなたの友人になりたい」と応え、握手を交わし、『収奪された土地』という中南米の苦難の歴史を描いた書籍を贈ったという一コマ。

ベネズエラの貧困層や農民を支持基盤とするチャベス大統領はアメリカを「収奪者」「悪魔」と呼び、仮想敵として国内をまとめていました。特にブッシュ時代のアメリカが対外的には超がつくほどの強硬路線だったこともあり、敵対心は最高潮に達していたと言えるでしょう。それが、オバマ政権が始まってからの、この変化。国内のテレビ放送向けには、「アメリカに尻尾を振っているわけではない」と強気の姿勢を崩さなかったようですが、明らかに新しい関係を模索し始めていると言っていい。ラウル・カストロが立つキューバもそうですが、中南米では対米路線の変更を模索する動きが急速に進みつつあるように感じます。

それは「対話路線外交」に加えて、オバマ大統領が黒人であるということが大きいのかもしれない。ヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸に進出してきた当時の歴史を考えればなんとなくわかる気がします。ヨーロッパに支配されたアフリカ大陸から送り込まれてくる大量の黒人奴隷は、アメリカ大陸に豊富に蓄えられた銀をひたすらに掘らされた。銀はヨーロッパ本国に送られ、それを元手にヨーロッパ商人たちは商売を拡大し、国王たちは税を得て、さらに軍備を増強する。まさにヨーロッパの白人たちによる「収奪」の歴史を、インディオと黒人は一部共有している。チャベス大統領もムラートとメスティーソの両親を持つということで、よりオバマ大統領に近しいものを抱いたのではないでしょうか。

ベネズエラ国内に渦巻く貧困の問題の根は深く、アメリカとの関係改善が即国内の問題解決につながるとは到底思えません。けれどもそれは間違いなく、問題解決を後押しするはずの一歩ではあるのです。オバマ大統領が進める新基軸外交と、それに応える諸国のリーダー・ニューリーダーたちが、近い将来、新しい歴史の扉を開いてくれるのかもしれません。

さて。

今回からしばらく趣向を変えまして、かつてインドで一人旅をしたときの話を書こうと思います。「なんで突然インド?」なのかというと、自分でもよくわかりません(笑)。強いて言えば、昔から旅行に出るたびにちょっとした旅の記録をつけていたのに、インド旅行に関してはまったく記録しておらず、ふと最近、それを文字化したい衝動に駆られたというべきでしょうか(断片的には「大麻」絡みの話で触れていますが)。

もちろんこのブログで「日記」のような内容のことを書くのは好まないので、それよりはもうちょっと、意味のある何かが抽出されたようなものにしたいと思います。そのための手段となりうるかは別としてですが、単純に出来事や自分が感じたことを時系列で綴っていく書き方はせず、表題にもあるように、「人」を軸としてインドの旅の思い出を振り返ってみようと思います。

一人旅とは言いながら、インドに滞在していた期間中、わしはだいたい誰かと行動をともにしていました。名前はとうに忘れてしまっても、一緒にいた彼らの言動は、いまだに強く印象に残っていたりもする。風光明媚な土地でもない限り、旅なんてものはだいたい「人」とか「食」に収斂されていくものです(よね!?)。そのうちの「人」の記憶の糸を紡いでいきながら、自分にとってのインド旅行を見つめなおし、「個人の記憶」よりもう少し昇華させたかたちで伝えることができるといいなと思います。


実際に本格的に旅の話を書くのは次回からとしまして、今回はその前提となる状況説明をしておこうと思います。「なぜインドか」「なぜ一人か」「当時のインドの状況と認識」の三点です。

まず、一点目。わしがインドに旅立ったのは2005年3月。すみません、すでに「何日」という情報が抜け落ちております。大学の卒業式に間に合うように帰ってくるべくプランを立てていたので、たぶん、3月9日とかそのくらいではなかったかな…。期間は12日間だったと思います。これは、間違いないです(…たぶん)。

できることなら大学在学中に一度はインドに行ってみたいという思いはずっと持っていました。それは友人に借りた遠藤周作『深い河』を読んだことがきっかけだったと思います。『深い河』はインドを舞台とする小説で、彼の地の死生観や宗教観が散りばめられた作品でした。生きていることの前提、死ぬことの前提、何もかもがまるで日本とは違う彼の地の有り様。小さな文字の羅列から想像するのではもの足りず、「ぜひこの目で」と思った読者が数多いるであろうなか、そのうちの一人がわしであった、と。そういうわけです。

とりわけ興味を引いたのが「ガンジス」。『深い河』もその名の通り、この河がストーリー上重要な意味を持っており、そのせいもあって「インドといえばガンジス川」、という図式がわしの頭の中にきれいに成立していたのです。とんでもなく汚い河であるにもかかわらず、それは畔に暮らす人々の生活の重要なインフラであり、インド人の多くを占めるヒンディー教徒にとっての心の拠り所であり続けている。どんな河なのだろう。見てみたいし、できることなら自分自身で沐浴もやってみたい。

『深い河』を読んで以来「ガンジス・ラヴ」な状態を引きずったままのわしでしたので、いよいよインドに行くことになり旅程を組み立てるにあたっても、当然メイン・ディッシュは「ガンジス」。思えば無駄に長く居過ぎた気もするくらい、貴重な12日間のうち多くの時間を、ガンジスの流れる町・バラナシでの滞在に当てたのでございました。

二点目。一人の理由について。当時「インドに一人で旅行に行く」なんていうと、それを聞いた人は皆「かなり勇気があるね」「すごいね」という感想を漏らしたものですが、わしもできることなら誰かと一緒に行きたかった(涙)。当初は一人で行く気などさらさらなく、気の合う友人2、3人で行こうと思っていたのでした。

ところが…、自分のスケジュールが決まったのが遅かったせいもあり、誘えど誘えど断られました。やっと引っかかった友人からも、突然「やっぱり無理」となんとも切ない連絡が。「地球の歩き方」などのガイドブックには、「インドはとても魅力的な国だが危険も伴う。特に外国人旅行者を狙った犯罪が多発しており、スリや詐欺はもちろん、強盗も起こる。インドを旅慣れた旅行者や、やむを得ない事情がある人を除いては、一人での行動はできるだけ避けよう」というような脅し文句が書いてあります。旅行計画初期は「ふーん」と軽く流していたこの記述も、日が経つにつれ「……俺のことじゃねえか」となんとも嫌な気分にさせてくる。そして、心の闇を晴らすべく旅のパートナー探しを続けていた徒労が癒えぬ間もなく、人数追加が不可能な時期が到来し、成田へと向かう日が到来したのでありました。

これも今思えば、一人で行った分、いろいろな人と接する機会を得たのだろうけれど、それも五体満足で帰ってこられたから言える後付けの話。おいおい記しますが、かなり肝を冷やすような話もあったのです。…というわけで、「一人」ということには特に狙いはございませんでした。

最後の点。2005年当時のインドは、詳しい数字はわからないけれど、すでに急速な経済発展を遂げている時期だったように記憶しています。BRICsという言葉もとうの昔にあった。もっとも、オランダの世界的な鉄鋼メーカー・アルセロールへの大買収劇を繰り広げたミタル・スチールや今や激安自動車「ナノ」でおなじみとなったタタ自動車などが脚光を浴び、固有名詞としてインドの大企業が広く知られるようになるのはもう少し後のこと。やはりそのころ急成長株として注目されていたのは、なんと言っても中国でした。

旅行先としてインドを選ぶマインドも、経済的に発展した都市にではなく、悠々と流れる大河・ガンジスや、何世紀にも渡る歴史を刻みつけなおそこにあり続ける数々の遺跡に向けられているように思います。少なくとも、当時旅行代理店が発行していたパンフレットの類はそのようでした。わしも当時、インドという国の位置づけとして、「東南アジア圏の一国」であり、ほとんどかつて自分が旅行したタイやカンボジアと同等程度としか捉えていませんでした。こっちはもっと治安が悪そうだぞ、くらいの感覚しかなかったかもしれません。

社会人となってから、一度だけインドに出張に行くという機会に恵まれました。学生時代に触れたインドとの差異を確かめながら、よりその国を深く知ることができるありがたい機会となりました。出張で訪れたインドはさらに経済発展しており、首都ニューデリーでは自動車の交通量も増し、よくわからないけれど建設業者が至る所で工事を行っていました。消費を煽る派手な広告看板がよく目に付きました。

その時に比べれば、学生時代に訪れたインドは、もう少し穏やかで、自然な時間の流れの中に人々の暮らしがあったように思います(もちろん、すべての都市を回っているわけではないし、それが良いとか悪いとかいう価値判断とも別の話です)。「今のインドより、ちょっとスローテンポな空気が流れている時期に旅行に行ったのだなあ」くらいにご理解いただければ。

…そんなこんなで、『深い河』に影響され、今よりゆるい雰囲気のインドに、やむを得ず一人で、旅に出ることになったワタクシ。彼の地でどんな人に出会い、どんなものを得たのか。悠久のガンジスの流れの如く、ゆっくり、まったり、書き起こしてみようと思います。宜しくお付き合いください。
posted by サイダー at 00:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

仮称「勉強会」について


お疲れ様です。おそらくは今年度最後の更新です。

小話。わしが大学時代に就職活動をやっていた頃から履いていたビジネス用革靴がありまして。踵の辺りがぼろぼろになっており、捨てようかとも思いましたが、ひとまず駅ナカでやっている靴修理の店に出してみようじゃないかと思って家から持ち出しました。店頭には「もう20年くらいいろんな人の靴を見ているよ」風の熟練したおじさんがおり、靴を見せて相談してみると、「こりゃあダメだな」と(そんなぞんざいな言い方ではないけど)。要所の革がだいぶ痛んでおり、張り替えようとすると余計変なことになっちゃうようでした。

もともと捨てようと思っていた革靴でも、こうやって改めて「捨てるしかない」と認識させられると、寂しく感じるものですねえ…。と、そんなこぼれ話でございます。

上のニュースについて。ドバイ……おそらくは昨年の前半と後半とで、180度様相が変わった都市のひとつではないでしょうか。たまたま先日NHKスペシャル「沸騰都市」で、「沸騰都市のその後」という題目で番組をやっており、その中でドバイが登場。08年初にはこの世の建設機械の3分の1が集中しているなどと言われていたあの都市も、リーマンショック以降、不動産価格が4割、上場会社の株式価格に至っては7割も下落するという、地獄の様相を呈しているそうです。不要になった建設機械が捨て値同然でオークションに出され、それを求めてやってくる建設業関係者で街が賑わっているという、なんとも皮肉なエピソードもありました。

わしもドバイには昨年新婚旅行で訪れているのですが、その時は今とは別の意味で「ドバイの最後の輝きを見よう」と思って旅行先に選んでいました。景気が上向く一方でしたから、「今後別の場所に第二・第三のドバイができるだろう」と思っていたんです。どうやら、当初の目論見とは真逆の「最後の輝き」を見てきたようですね…。カルティエも、引くに引けない崖っぷちの決断での出店でしょう。旗艦店のPR効果はさておき、実利ベースでは非常に厳しいラインではないでしょうか。

さて。今回も「雑感」ではなくてですね、なかば、やっていることの告知に近いです。

タイトルのまんまなのですが、知人らと共同で仮称「勉強会」という集まりを始めました。参加者が持ち回りで講師となり、仕事のことでも趣味でも何でも良いので、とにかくテーマを決めて一時間話をする。受講者はその話を聞きながら、意見やら疑問やらを自由にぶつけてみる、という非常に単純な集いです。

初回を今月開催しまして、発起人であるところのわしの友人とわしが講義をしました。彼は弁護士なのでその知見を生かしつつ「人を裁くことの意義とその変遷」というタイトルで裁判員制度についての話をしました。制度創設に向け当初掲げられていた目的が、どうも現状追求されている制度の機能とかけ離れているのではないかという話や、実際に裁判員になったときに当事者が行うであろう「事実認定」の行い方の話など、興味深い話やためになる話が聞けました。わしは迷った挙句、自分のいる業界に絡めての話を少々しました。

参加者は発起人が少しずつ引っ張ってきた知り合いと合わせ8名ほどのこじんまりとした規模ですが、学生時代のゼミのような乗りで、かえって良かったように思いました。講義の後は、もちろん近くの居酒屋で懇親会。そこは昔からわしの大好きな店でございまして、当然のごとく勉強会計画初期段階から、そこで懇親会をやるということを重要事項として織り込んでおいたのでした(笑)。わしは行けなかったのですが、初対面同士の人もそこそこいる中で、自然と二次会に行こうという声が上がったのはうれしいことでした。

などと、思い出を日記のようにつらつらと書いていても仕方がない。まあ要は、参加したい人がいらっしゃれば、ぜひお越し下さいということが言いたいのであります(わしの連絡先知っている人に限定されちゃいますが…)。

そもそもこの集まりを始めた理由は、知識の共有とでも申しましょうか、仕事でも研究でも趣味でも、人にはそれなりに経験に基づいて語れる分野があるはずで、それらの知見を皆で教え合えたらよいなと考えたからです。素人が専門の本を読むよりは話を聞くほうが吸収しやすいし、時間もかからない。浅くはあるものの広い視野の獲得にも寄与できる。悲しいかな日々自分のやるべきことに追われてしまうとなかなかインプットの時間がないし、自分の「本業」と関係なさそうな物事についてはどんどん遠ざかっていってしまいます。だから無理やりでも、なんの役に立つのか分からない話を聞く場を設けよう、と。堅い経済の話でも良いし、おいしいコーヒーの淹れ方でも良いし、旅で訪れたウズベキスタンの生活でも何でも良い。もしかしたらその中で偶然、自分の仕事や研究に影響を与えるようなスマッシュヒット講義に巡り合えるかもしれませんしね。可能性は低いですが、何もやらないよりは高いでしょう。

個人的には、西周が「エンサイクロペディア」を日本語に訳したところの「百学連環」という言葉の持つイメージを大切にしつつ、名番組「タモリ倶楽部」で大の大人たちが電車に乗ったり、音響機材見てわあわあ興奮しているようなマインド・好奇心もまた大切にしつつ、大学の教養学部をもう一度やりなおす「大人の教養学部」というか…、まあそういう場にしていきたいなあと思っています。

やがてはアメリカ軍基地や裁判所法廷など一人ではなかなか行かないようなスポットに皆で行ってみる「大人の社会化見学」をやったり、多少参加費を徴収して、誰か著名人に講演に来てもらう催しなどもやったりしてみたいですね。

よほどのことがない限り毎月一度のペースでやっていこうかと考えています。次回開催は4月18日(土)。場所は都内某大学校舎内(正式な手続経て借りております)。日本の昔の文字の解読方法や、旧約聖書、IT業界についての講義が開かれる予定です。さっそくむちゃくちゃなテーマになってきています。そういうのが、いいんですよねえ(笑)。

上記趣旨に賛同の上参加ご希望の方はどうぞご連絡下さいませ。こういうオープンな場で告知しておきつつ非常に非常に恐縮ですが、あくまでリアルなわしを知っている方を念頭に置いております。それ以外で参加したいという方が万が一いらっしゃれば…連絡方法などやり方検討いたします、はい(いないと思うのですが…)。

それでは、新年度もがんばりましょう&よろしくお願いします〜〜。
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2009年03月27日

心に響いた一言


おつかれさまです。ここのところ割と調子よくブログを更新しております。もしかして自分、暇なのかしら……?

上のニュースについて。ついに、モルガン・スタンレー証券が三菱に両膝をつく形になりました。昨年MUFGによって9000億の資本注入が行われて以来の新たな動きです。社名などは今後詰めるということですが、まあ必ず名称の先頭には「三菱」が冠せられることでしょうね。

非常に気になるのは統合後の社員の待遇を、どうやって調和を取っていくかということです。金融業界のことはよくわからないのですが、モルガンと三菱UFJとでは、社員に支払われる給与・報酬に非常に大きな格差がありそうな気がしております。あくまでイメージですが、端的に言うと、モルガンの方ががっつりもらっているように感じております。そんなモルガンにいた人たちが、新しい会社での待遇に満足できるものかどうか。モチベーション維持・人材流出阻止という観点から、非常に気になります。

それにしても、わしが学生だった頃は「外資系金融万歳」という感じで、帰国子女はじめ英語ができる人はこぞってモルガンなどの外資系に就職したがったものです。それが今や、リーマンは破綻し、AIGは国に命を救ってもらい、モルガンも三菱がカネを出さなければ死んでいたというところにまで至っているのですから、隔世の感がありますね…。それでもなお外資系人気が衰えていなかったとしたら大したものですが。

さて。今回は「〜〜についての雑感」といういつものタイトルと趣を変えてお届けいたします。これまで生きてきていろいろな人に出会い、さまざまな経験をして、なんとか今までやってこれているわけですが、そんな中、今でも心に残っているさまざまな一言がございます。直接聞いたり、本で読んだり、テレビで見たり、伝わり方こそ違えども、どれもわしの人格形成に非常に大きなインパクトを与えた言葉。備忘録も兼ねつつ、そんな言葉たちをいくつか紹介していこうと思います。


▼「世話になっといて、労いの言葉一つかけられない人には、誰もついていかない」

ふと思い出すたびに胸が痛むのがこの言葉です。話は大学時代に遡ります。

わしは芝居のサークルに入っていたのですが、そこで裏方のあるセクションのリーダーをやることになりました。「制作」と言って、芝居のチラシを印刷に出したり、チケットの販売をしたり、予算を管理したりと、まあこまごまとした業務の多いセクションでした。

ある日、とある事情から追加で紙の作りものをして、手作業で折り込んで封筒に入れるという、割とめんどうな作業をやることになりました。それも大量に行わなければならなかったので、他のセクションのスタッフにも手伝ってもらって、朝から晩までかけてなんとか終わらせました。その時に、同じ制作セクションでわしの下についてやっていた同期の女性から言われたのが、上述の一言であります…。

まあ、本当にその通りというか…。酷いもんですね。「やってもらって当たり前」とか、そこまで駄目な考えではなかったものの、当時は「ありがとう」と言葉で示すことがものすごく苦手だったし、代わりに、お返しに、お礼に、何かやってあげようとか、そういうマインドが一切なかったように思います。自分の損得や都合ばかり考えていて、相手のことなど思い遣る隙さえなかった。上の言葉を浴びせられたにもかかわらず、結局行動が改まってくるまでにかなりの時間を要したように思います。

ちなみにこの言葉を発した主である女性は、当時から非常に大人というか、自分の挙動によって相手の気持ちがどんなふうに動くかを手に取るようにわかっている人でした。当然の如く大変モテましたが、同じ年代の学生などは相手せず、年上の社会人と付き合っていたんじゃないかな。そんな彼女からすれば、上の言葉はどうしようもなさすぎるダメ男に対して、憐憫の情をこめて発した一言だったに違いありません…。


▼「見えないからできない、じゃなくて、何でも挑戦してみようと思います。わたしには、できないことは、何もない」

テレビのドキュメンタリー番組から。パラリンピック出場を目指し、毎日水泳の練習に打ち込む全盲の少女が、ドキュメンタリー最後のシーンで言った一言。

水泳を始めたばかりのころは、あまりの恐怖で飛び込み台から一歩も動くことができず、震えながら泣いていた彼女。厳しい練習に耐え、時には挫折を味わいながらも、よき理解者である母親と一緒に頑張ってきた3年間。その集大成として迎えたパラリンピックの国内選考会で、彼女は基準タイムを大幅に上回る素晴らしい記録を残しました。次はいよいよ世界へ。新しいステージに挑戦する彼女が、カメラに向かって力強く言ったのが、上の言葉でした。

手元のティッシュが尽きるくらいの号泣っぷりで視聴いたしましたが、これは本当に心を打たれました。胸を張り自信をもって、「できないことは、何もない」と話すその姿勢に感じ、同時に、自分ができないこと、やりたくないこと、それら一つ一つをいちいち周囲の人や状況のせいにして正当化しようとする言動、つまり自分に言い訳をしている自分自身の態度がとても恥ずかしくなったことを覚えております。

もちろん今でもそういう部分は多々ありますが、そんなときには彼女の言ったこの言葉を大切に思い出し、少しでも彼女の境地に近づくべく、自省しているのでございます。


▼「いいよ〜〜〜〜っ!」

これは、わしに向けてではないのですが、小学校のときに友人が言った言葉です。

教職の資格を取るために大学からやってきた教育実習生が、しばらくの間授業を行うというのは皆さん経験があるかと思います。比較的歳も近くさわやかな先生のたまごたちに接して、淡い恋が芽生えたりするのですよね(笑)。わしが何年生の時だったかもはや忘れてしまいましたが、その年もまた実習生が数名やってきて授業を行いました。実習最後の日には体育館で全校集会が開かれ、実習生がひとりずつお別れの挨拶をします。その時に、ある男性の実習生が挨拶の中で一言、「僕が無事に先生になれたら、またこの学校に戻って来てもいいかな?」と言ったんです。そしたら、わしの隣にいた友達がすかさず、体育館中に響き渡るくらいの大きな声で、叫んだんですよね(笑)。

叫んでからほんの一瞬、しーん…となって。その後、先生も子供たちも一斉に「おおおおおおおっ!」と。当の実習生は挨拶の後、ステージを駆け下りて彼を抱きしめておりました(笑)。真心から発せられた言葉というのは、たとえ拙いものであったとしても、虚飾に満ちたどんな言葉にも増して人を動かす力がある。当時のわしはもちろんそんなことを考えていたはずもなく、単純に「こいつ、すげえな(普段はろくでもないけど)」と思っていたくらいでしたが、大人になってだんだん心が汚れてきたあたりから、「やっぱりそうだよな…」と、ボディーブローのようにじわじわと染みてきている。そんな名言でございます。


こうやって文字に落としていきながら、上に挙げた言葉たちを反芻すると、自然にその言葉と出会った当時のことが思い出され、甘酸っぱかったり、苦々しかったり、いろいろな感情も一緒になってよみがえってきますね…。回春効果がある記事です(笑)

ずいぶん自己満足な内容になってしまったかもしれませんが、今回は以上です。それではまた来世〜〜。
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2009年03月22日

子育てについての雑感


おつかれさまです。2年ぶりくらいに、ブログのデザインをいじってみました。前のペンギンがいる赤と黄色のデザインのもよかったのですが、さすがに飽きてきたので、さわやかな緑と白を基調としたこちらのデザインに。いかがでしょうか。

上のニュースについて。燻り続けるアフガニスタンの争いの火種。アメリカは軍の増派を表明していますが、この国が真に平静を取り戻し、多国籍軍が役目を終えて撤退するまでのゴールイメージはそこにあるのでしょうか。憎しみの連鎖が始まり、アメリカの行いが第二第三のタリバンを生むスパイラルを深めているだけなのに、一度介入すると容易に後には引けない。そういうことではないのでしょうか。

さて。今回も自分の近況が主な内容になってしまい、恐縮ですがお付き合い下さい。

昨年末に長女が誕生したことは、このブログでもちょこっと触れさせていただきました。おかげさまで元気に成長し、抱きかかえるたびに「この前よりも重くなっている気がする」と感じます。近頃やっと首が据わってきたようですが、油断するといきなり頭が変な方向にガクッといってしまうので、気をつけねばなりません…。

自分に子供ができてみると、当然のことながら、子供ができる前と考え方が変わったことや、新しく考えるようになったことがいくつか出てきます。そういう頭の中の変化について、自身で反芻しつつ少し書いてみようと思います。

@ 子育ては大変である

子供ができて生まれた思考の変化、その中でも一番大きなものと言えば、これに尽きます。子育ては大変です。「そんなこと言われなくたってわかっているよ」と言われてしまいそうですが、大変であるということが身をもって理解できました。最近はあまりなくなったのですが、生まれてきて最初の頃はとにかくよく泣いて、どんなに夜遅く、こちらが疲れていてもおかまいなしでした。機嫌を取ろうと抱きかかえてあやしても、泣きいらだつ。ようやく寝静まったかと思って、布団に寝かせると1分も経たないうちにまた泣き始める…。毎晩毎晩そんなこと繰り返しで、正直な話、大声で泣いているわが子を見て、ついカッとなって苛立ったこともありました。

日中も、寝ているときはもちろん、起きているときも、ひとりにはできないので絶えず傍にいる必要があります。落ち着いているときは本を読んだり、パソコンを触ったりしていられるのですが、機嫌は箱根の山の天候のようにころころと変わるので、いきなり泣き出すこともしばしば。そうすると、寝かせたままでは泣きやんでくれないので、こちらの用事は後回しにして抱いてやらないといけない。楽をして抱いて座ろうとすると、手抜きがばれるのかまた泣き始めるので(笑)、立って歩きまわりながら落ち着くのを待つ。そんなことをしているうちに30分とか1時間があっという間に過ぎていきます。

外に散歩に連れていこうにも、暑さ寒さを考えてそれなりの身支度をしてあげなければならず、外に出るまでが意外と面倒くさい。いざ外に出ても、人ごみの中でベビーカーを押して歩くのはなかなかに気を張る必要がある作業で、家に帰ってくるとかなりの疲れを感じることがあります。風呂に入れるときでも、自分のことは後回しで子供の面倒をみることになります。風呂から出てしっかりと身体を拭いて、服を着せて、かぶれ止めのクリームを塗って…とやっていて気がついたら、自分は風呂に入ったんだか入っていないんだかわからないくらいに身体が冷え切っていたこともありました。

なんてことを大変そうに書いていますが、子供の世話をやっているのはほとんどが妻で、わしは平日の朝や土日ぐらいです。それに加えて食事を作ったり洗濯をしたり、買い物にも行っています。とても大変なことです。子供を抱きかかえるときに負担がかかったのか、彼女は腰を痛めてしまいました。それでも、泣いている娘をあやすために、抱きかかえるのをやめるわけにはいきません。娘はこれからどんどん大きくなって体重も増えていくでしょうが、だからと言って放棄できないのです。

ふと、毎日の子育てを、自分ひとりでやらなければならないとしたら、いったいどういうことになるか考えてみます。子供の世話を第一に行うとして、自分のこともしなければならない。生きていく上でお金を稼ぐために働く必要もある。細々とした雑用もあるでしょう。夜、布団に子供を寝かせつけながら、自分も疲れ果ててそのまま寝てしまうような暮らし。いつ、どこで、何をしようにも、絶えず子供のことが頭の片隅にちらついているような暮らし。友人知人とゆっくり酒を酌み交わしたり、のんびり舞台を見に行ったりするゆとりなど、物理的にも心理的にも持ちえないのではないでしょうか。

そんなわけで、改めて、子育ては大変である。だから自分が頑張っているということを言いたいのでは毛頭ない。世のすべての母親、特に、何らかの理由によって独りで子供を育てている「シングルマザー」と呼ばれる人たち、その毎日の奮闘に頭が下がる。また育児を理由とする時間短縮勤務という働き方を選んだ女性に対して一時期、「中途半端に働いて…」という思いを抱いていた自身の不明を恥じる。もしかしたら職場よりもきつい仕事をしに、これから出かけるのかもしれないからである。そして、ワイドショーで躍る「幼児虐待」という言葉と共に面白おかしく報じられる事件に対して、「人格の伴っていない愚かな親がこういう事件を起こす」と断罪していた自身の不明を恥じる。個人差はあれ、子育ては心身に疲労を蓄積させるものであり、その蓄積と回復との微妙なバランスのずれにより、悲しい事件を起こしてしまう可能性を誰しも持っているからである。正直自分だって、どうなるか分からない。

とにかく今は、嫁の足を引っ張ることのないよう、尽力してまいる所存です…。

A 待機児童と子育て支援

もう一つ最近考えるようになったのが上記について。うちは共働き世帯で、今は嫁が育児休業中で、子育てに専念できることになっている。ありがたいことに、給料も通常支給の何割かがもらえている。ただしそれも今年いっぱいまでの話。そのタイミングを向えるに当たり彼女は、会社に戻って働くか、辞めるのかの選択を迫られることになる。

働く場合には、このままでは日中子供の世話をする人間がいなくなってしまうので、何らかの措置を講じる必要がある。一つには、わしが育児休業を取得する、もしくは会社を辞めて主夫となるという選択肢がある。あるのだが、育児休業ではその場しのぎに過ぎないし、辞めるというのは現在の生活の維持と今後の生活のための貯蓄を考えた時に、明らかにナンセンスである。

わしか嫁の両親に、日中世話をしてもらうという選択肢もある。ただし、双方地方に住んでおり、特に嫁の実家には家業などもあるので難しい。わしの両親はまだ可能性があると言えるが、向こうの土地や家をどうするのか、こっちでの住まいをどうするのか、何より彼らがそんな生活に納得するのか、まったく未整理である。

順当に考えれば、子育てに関するその道のプロ、保育園に預けるという選択が最も可能性があり、妥当であるようにも思われる。しかしながらそこで、よく言われる「待機児童」の問題が出てくる。保育園に入所する資格があるのに、入りたくても入れず、空きを待っている状態のことである。数年前から国が主導して、待機児童数を減らすために保育園の許認可の緩和などの施策を行っているものの、その進捗度合いは都道府県によってばらつきがある。そして何を隠そう、今わしらが暮らしている場所は、待機児童数に関しては全国でトップクラスなのであった…。

今年中になんとか入ることができればよいのだが、そもそも入ることさえ難しいのであるから、生活にうまく適合する立地やサービス内容、料金など、さまざまな条件にぴったり折り合うということは全くと言っていいほど期待できないのではないか。どこかで妥協する必要が出てくるのだろう。

そして万が一入ることが出来なかった場合。このときはもしかしたらわしが育児休業をとることになるかもしれない。確か最大半年間取得できたはず。その間になんとか保育園に入れることが必要になる。それでも保育園に入れなかったら…、考えたくはないが嫁に仕事を辞めてもらうこともいよいよ視野に入れる必要が出てくる。彼女のもたらす収入が丸ごと無くなってしまうというのも、我が家にとってはかなりの痛手であるのだが。

最初から彼女が「辞める」という選択を望むのならば、それを尊重するまでのことだが、おそらくそんなはずはない。家では子育ての合間を縫うように英語の勉強などを続けているし、何を隠そうビジネス・スキルという点で見れば、むしろ彼女の方がわしよりも余程高い能力を持っているのであった…(謙遜ではなく)。そんな彼女が「仕事を続けたい」と言った時に、それを駄目だという権限は、少なくともわしにはないし、できれば今後も仕事を通じて、お互いを高め合っていく、良い意味での緊張関係を保ちたいとも思っている。

ではどうしたらよいのか…と、そこまで考えつつ、結局いつも結論をみることはない。「まあこれまでの人生も運が味方してくれた部分が大半だから、今回も意外とあっさり保育園に入れるのではないか」という、現実逃避と紙一重の妙なポジティブ思考が湧き上がってくることもある。

日々の子育てという、やや刹那的・即時的な作業に加えて、これからの子育てをどうしていくかという、長期的な計画も行わなければいけない。娘の寝顔や泣き顔を見ているうちにあっという間に過ぎていく24時間の積み重ねに、気がついた時に押し潰されていたということのないように、今のうちから突っ込んだところまで考えなければいけない。いけないのだが、なかなかできない。できないうちに時間が経つ…。断ち切るタイミングを決めるのは、自分次第である。


以上、明らかに子供ができる前には考えなかったことをいろいろと考えるようになった昨今でございます。同様の状況に置かれている歳の近い友人知人もちらほらいますが、彼らもやはり同じように考えたり、悩んだりしているのでしょう。嫁は毎日インターネットの子育て掲示板のチェックを欠かしません。日々の投稿は膨大な数に及び、子育ての後輩に向けた役に立つアドバイスもあれば、愚痴とも何とも似つかぬ独白もあるよう。

子育て。とかく、大きなテーマです。
posted by サイダー at 03:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

「未来をひらく福澤諭吉展」についての雑感


おつかれさまです。ちょっと間が開きました。最近寒いですねー。今にも雪が降りそうです。

上のニュースについて。街中で何かにつまずいて転ぶ、烏龍茶を「とりりゅうちゃ」と読む、社会の窓が開いている…。この世に恥ずかしい出来事は多々あれど、これほど屈辱的なことはそうそうないのでは。まんまとDVDの万引きに成功したと思ったら、まさか小学5年生程度の少年に尾行されてお縄につくとは…。「武士の情け」という言葉が現代日本でも通用するならば、せめて警察の方は、犯人に捕まったきっかけを教えないであげて欲しいですね。

さて。今回は舞台ではなくて、展覧会を見てまいりましたのでその雑感を…。

タイトルでも書いておりますが、見たのは東京・上野の東京国立博物館で行われている「未来をひらく福澤諭吉展」。福澤展に興味のある大学時代の友人らと連れ立って、春爛漫の遠足気分で行ってまいりました。すでに1月から始まっており、主催にフジサンケイグループが入っていることもあるので、それなりに認知もされているのではないでしょうか。

週末で混んでいるかなと多少不安でしたが、実際は「それなり」で、閑散としているわけでもなく、すし詰め状態でもないほど良い状態でした(余談ですが、かつて「ゴッホのひまわり」展を見に行ったときは本当に圧死するかと思いましたね)。客層も若い人からお年を召した方までさまざまでしたが、やっぱり年配の方が多かったかな。皆さん慶應義塾出身の方なのでしょうかね。

さてうちらはと言えば、特に福澤諭吉に詳しくもない素人集団なわけですが、なんとありがたいことに!何を隠そう福澤研究の第一人者たるお方が大学時代の先輩でいらっしゃいまして、当然の如くこの展覧会にも関わっており(というかどっぷり漬かっている状態)、我々素人様ご一行のアテンドをしてくださることになったのでありました。おお何と言う天佑。

プロのガイドを味方につけた我々は、スターを取って無敵状態のマリオの如く、意気揚々と館内を進むのであった。展示内容はざっくり言うと、福澤諭吉個人の生涯や家族との営み、慶應義塾で彼が目指した理念や実際の義塾の様子、慶應から巣立って地方で福澤イズムを実践すべく頑張った先人、福澤と政府の関係、福澤の海外へのまなざし、福澤や彼の縁者が収蔵していた美術品、などのテーマで括られており、多角的に福澤諭吉を知ることができる。単純に年表を追うような展示もあるけど、テーマ・オリエンテッドな展示の方が、見せたいものもビビッドに伝わるし、良いですね。

それにしても、専門家の解説があるとわしのような行間の読めないボンクラでも理解が深まる。たとえば目の前に「福澤が北里柴三郎の病院に宛てた怒りの書簡」があっても、普段なら「ふーん、じゃあ次」で終わってしまうのだが、今回は書簡が書かれたきっかけや、そもそもの福澤と北里の付き合いの始まりなど、史料の「奥行き」を語ってもらえるおかげで、北里に対する福澤の期待や激励の思いが伝わってくる。得られる情報の濃度がまるで違うのである。

展覧会も演劇も、これまで一人で行くことが多かったのですが、思えばなんともったいない時間の費やし方をしたものだろう。さすがにその世界の第一人者に毎回お願いするわけには行かないけれど、やはり誰か、それなりに知っている人と一緒に見るのが賢明でしたね。いや、もったいないことをした…。

上記の「怒りの書簡」や「福澤と勝海舟の喧嘩」などいろいろと面白い展示が多かったけれど、特に印象に残っているものがふたつ。ひとつは慶應義塾の設立理念として掲げられた「気品の泉源、智徳の模範」という言葉。義塾を「気品の泉源」として、「智徳の模範」となるような人材を社会に輩出していきたいという福澤の思いがこめられています。当時この言葉を掲げて社会に向き合うその姿勢に感ずるところも大きいのですが、なんと言っても声に出して読んだときに凛と響く、この言葉そのものの持つ強さ、美しさにやられてしまいました。恥ずかしながら、「福澤はこんな素晴らしいことを言っていたのか…!」と。「好きな言葉」なんてものは特になかったわたくしですが、今後問われれば即答でこれです(笑)

そしてもうひとつ印象に残っているのは、福澤の死を知った市井の一女性が、遺族に対して宛てた一通の書簡。福澤は男尊女卑が当たり前の時代にあって男女の平等を説いた人であり、それゆえ彼の死を知った世の女性たちが、こぞって葬儀に参列したと言われています。別にそれ自体はどうでも良くて、大事なのはその女性の書いた文章です。中身は女性の地位向上に貢献した福澤の死を悼むものですが、文中に何度も、「ご遺族の方の無念さはいかばかりかお察しする」「葬儀で慌しい折に、このような手紙を送って申し訳ない」「本来直接仏前に参るべきところ、手紙を送るだけで申し訳ない」という記述が出てくる。自分のことをどうだこうだと言うのではなくて、(おそらく面識もない)遺族たちを慮りながら、心をこめて手紙をしたためていることが、文章から滲み出るように伝わってくる。弔事はもちろんですが、そうでなくとも「手紙とは本来、かくあるべし」と思い、深く心に残ったのでした。

ふと我が身を振り返れば、メールでも電話でも、自分の用件だけを一方的に伝えることのなんと多いことか。「〜〜になりましたのでよろしくお願いいたします。」「〜〜していただけますと幸いです。」という具合で、表現は丁寧だけれども、相手への惻隠などというものはゼロに等しい。さらに考えてみれば、仕事をしていて「すごく優秀な人だ」と感じる人たちは皆、相手の立場や置かれている状況に対する深い洞察力を持っていて、実に懐の深いコミュニケーションをしているではないか。

福澤が死去したのは1901年。一世紀以上も前の、名も知らぬ女性の書簡によって、己の未熟さを知らしめられることになろうとは…。本当に「いやはや」という思いである。

先輩に展覧会を案内してもらいながらしみじみと思うのは、「福澤諭吉研究」でも何でも、ひとつの物事を学び究めるということの大切さについてである。どんなことでも、究めれば、教えられる。教えることで、喜んでもらったり、楽しんでもらったり、納得してもらったり、とにかく世の中の役に立つことができる。立派に存在する意義があるのだ。自分など、日頃偉そうなことばかり言ってはいるが、仕事を始めてからこれまでの間に、何か「これなら誰にも負けない」「誰よりも知っている」と胸を張れるものをひとつでも得ることができたであろうか…。道のりは遠い。

以上、なんだか、反省ばかりの感想になってしまいましたが、バラエティーに富んだ展示が楽しめる展覧会ですので、興味があればぜひ足を運んでみてください。3月までやっているようですので。もしかしたら展示を見ながら「己への気づき」が得られるかもしれません(笑)
posted by サイダー at 00:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

わしの最近の出来事についての雑感


上のニュースについて。社名も変更して勢いに乗っていたパナソニックがここに来て大失速。90%も利益が吹っ飛んでしまうというのは、国内はもちろん、主力である海外向け商品が売れていないということ。アメリカの消費動向を測る指数があるのですが、これが1%下がり、特に不動産や自動車では4%も下がったようです。世界一の消費大国での消費の鈍化は、目に見える形で世界中に広がっています。トヨタがだめ、パナソニックがだめと、日本有数の大企業がこの調子なのでは、税収も大幅減となり、国債がさらに発行され、にもかかわらず砂漠に水を撒くような給付金が放出され…と、この国はどうなっていくのでしょうか。

さて。

今回も五月雨式につらつら書きますが、全部自分の話です。めずらしく。

▼久々に会う人や風景について

先日はちょっと面白いことがありました。小学校や中学校時代の友人との飲み会に行ってきました。わしは高校で引っ越してしまったので、まともに話をするのは10年ぶりという人もいましたかね。だいぶ前からこの日が来るのをすごく楽しみにしていたんですが、でも実際に飲み会が始まって、終わってみると、どうも思っていたようなイメージと違う。

どういうことかというと、久しぶりに会う人もかなりいて、仕事や結婚などいろいろエピソードも生じやすい歳ということもあって、始まるまでは「あんなことを話そう、こんなことを聞こう」といろいろ思っているわけです。それで実際に再開してみると、長い年月のブランクなんてまったく感じさせないくらいに、打ち解けた感じで話はできるんだけれども、結局聞きたかったことはほとんど聞けずじまいで終わってしまう。「この数時間、何を話していたんだろう」と。今振り返っても、ほとんど記憶にないんですよね。たぶんその場の笑いをとるような浅い話がほとんどだったんじゃないかしら。

そしてこれはわしの性格なんだと思うんですが、やっぱり久々に会う人に対して、自分を良く見せようと虚勢を張っている部分がどうしてもある。別に何を自慢するわけではないけれど、ちょっとした挙動でかっこつけているというか。でも昔よりはだいぶましになったかな…。

そう考えるとやっぱり自分はシャイな人間なんだろうなと思います。人と会ったり話すことは好きだけれど、どうも気恥ずかしくて聞きたいことも結局聞けず、相手にかっこ悪い部分を見せないようにふるまっている。

当日は夜中まで飲んで、友人宅に泊めてもらったんですが、不思議なことにその友達のお母さんとは、いくらでも話ができる。子供の頃は一切関わりなかったけれど、性別も年齢もまったく違い、気負う必要もないから、楽なんでしょうね。

彼の家の前には、わしらが小学校時代によく遊んでいた公園がありました。早くも木の葉が散り始めて、なんとなくさびしい雰囲気の漂っているこの公園は、鬼ごっこをやったら鬼泣かせのとても広い公園だったのですが、今改めて眺めてみると、すべてが一望できてしまい、両の手のひらに収まってしまいそうに小さく感じる。それがなぜか、もの悲しさを誘う。

友人が駅まで車で送ってくれるそのついでに、昔のわしの家の前まで連れて行ってくれました。今は人に貸しているんですが、どうなっているのかとちょっと様子が見たかったのです。白に近いクリーム色をした外観の家なんですが、数年前に見に来たときには、錆が出たせいなのかところどころ赤っぽくなっている箇所があって、さすがに年が経ったのだなと思ったものでした。

今回見るときに、もっと古くなっていたらショックを受けるんだろうなと、ちょっと臆病風を吹かせていたりもしたのですが、見てみると白に近いあのクリーム色が、建てられた当時のようにきれいに広がっており、少なくとも外見上はとても立派でした。ただ、それにも関わらずショックを受けたことは、小さな子供がふたり(たぶんその家に住んでいる子供だと思うのですが)、庭で遊んでいたんですよね。

ボールを投げて遊んでいるこどもの姿を見た瞬間に、「自分の居場所が取られてしまった…」という悔しさと寂しさが渦巻いたような感情がわっとこみ上げてきて、つらい気持ちになりましたね。いくつになっても、自分が幼い頃過ごした場所というのは、やはり特別なんですかね。わしが幼稚なだけかもしれませんが。


▼不動産崩壊のご時勢に

都心のマンションに代表される不動産の値下がり。さらに不動産会社の相次ぐ倒産や不動産投資法人の破綻、オフィスビルの空室率の上昇など、追い討ちをかけるような事態が重なりまくって、新聞でもビジネス誌でも普通の週刊誌でもテレビでも、こぞって言われているのが「不動産の崩壊」。ちょっと前にも不動産に関する記事は書きましたが、そのときよりもさらに厳しい状況になっていますね…。

徐々に不動産の需要が収まって価格が下降に向かうであろうという話は、実は去年の暮れぐらいからあったのですが、「徐々に」なんてもんじゃなくてジェットコースターばりのスピード感で価格が下がっている印象を受けます。毎週金曜土曜にはマンションの折込チラシがばんばん入ってくるのですが、同じ物件でも日を追うごとに明らかに価格が下がっていたりと、わしもその潮流を肌で感じました。

サブプライムの煽りを受けて、株安や円高で日本経済がめちゃくちゃなことになり、高額商品である車やマンションを買おうというマインドは一段と低迷している。今が買いという話もあるけど、これは来年にかけてさらに安値がつくでしょうね。そしてこれから着工するマンションに対しては、買い手はかなり気をつけなくてはいけない。石油の価格は下がっても、建設資材系の原料はまだまだ高値水準にある。けれど消費者の所得も低迷し、価格も押さえなければ売れない。そうなったときに出回ると思われるのは、性能・品質を落とした物件です。安かろう悪かろうという(悪かろうは言いすぎでしょうが)。

素人のぱっと見ではわからない意外な部分で品質を甘くされている場合には、買った後から文句を言っても無駄ですので、きちんと見極めをする必要があるでしょうね。別にマンションなんて、ちょっとグレードを落としたところで、地震がきたら一瞬で倒壊するとか、そんなことが起こるわけでもないですけど…。

そしてネタをばらしてしまうと、こんなとんでもないご時勢にわしはマンションを買ってしまいました…。契約当時はまさかここまで世の中がひどいことになるなんてこれっぽっちも思っていなかったのですが、今となっては果たして良かったのかどうか、さっぱりわかりません。おそらくは高値でつかんでしまったんだと思います。

もっとももうすぐ子供もできて今の家が手狭になってという事情もあったので、自分にとっての買い時であったのは確かです。幸い世界同時不況のおかげか、住宅ローンの金利はとても低いので、まあがんばって返していきます。頭金の支払いや12月からの新生活に向けて家具や家電を買い直してカネを使い果たしたので、しばらくは慎ましく暮らします…。誰か、酒でもおごってください(笑)

ひどい終わり方ですが、今回はこのへんで。また来月…。
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2008年04月14日

青森恐山のおもいで


どうもこんにちは。上のニュースについて。地球温暖化のことを正式な教育カリキュラムに組み込もうという話。自分たちが生きていけなくなるという感覚の切実さが日本とは違うように感じました。

さて、「桜のおもいで」という記事を書いた時にちょっと触れた青森の「恐山(おそれざん)」。日本に観光名所多々あれど、これほどエッジの立ったスポットも珍しい。折角なので一発書いてみようかと思います。

まず恐山とはどこにあるのか。青森県を頭に描いていただきますと、上の方に角が二つ突き出ております。その右の角の先の辺りに、お山がありまして、それが恐山です。ちなみに角の先端は、高級マグロで有名な「大間」でござんすよ。まあ、早い話が下北半島にあるってことです。

わしが行った時は、半島に至る手前の野辺地(のへじ)という駅からレンタカーで北上したのだけど、最寄りの駅は下北駅です。と言っても恐山に行くためには歩きではちょっと厳しいので、タクシーなどを利用しないといけません。

下北市街をしばらく走っていると、うっそうと木々が生い茂るゾーンに突入するのですが、それが恐山への入り口。道もくねくねしていて、雰囲気は陰鬱な箱根。対向車線をややはみ出しつつ走っていると、車中に異変が。どこからともなく硫黄の臭いが漂ってくるのだ。今流行の硫化水素自殺ってこんな感じなのかしら、と思ったか思っていないかは別として、極めて危険な状況下でクルマを運転していたのは間違いがない。

そうこうしているうちに、木々のゾーンは終了し、鼻か脳がイってしまったのか硫黄の臭いも感じなくなった。そして目の前には小高い灰色の山と湖。ガイドブックにも書いてある写真撮影スポットがあったので、クルマを停めて記念に一枚。湖がきれいに見える小さな橋なのだが、恐るべきことにこの世とあの世を結ぶ橋なのである。とんでもないところで撮ってしまった。しかもクルマの外は硫黄の臭気が半端ではないのだ。真面目にあちらに逝ってしまいかねない。

橋からちょっと先に行ったところには、もう「ザ・恐山」という迫力に満ちた菩提寺が見えている。駐車場にクルマを置いて、入場料500円を支払い、お堂の門をくぐって中に入る。白っぽくざらついた世界が広がっている。何を祈ったらよいものかよく分からないが、とりあえずお賽銭を入れてお参りを。本堂の脇には絵馬がかけられているところがあり、ずっと雨ざらしにされていたのか、すっかり色のあせた無数の絵馬が微かに風に揺れている。失礼ながら、どんなことが書いてあるのだろうと近づいてみると、嫁がとてつもなく衝撃的な絵馬を見つけてしまった。その内容は、とても軽はずみにここにかけるようなものではない。だいたい絵馬というものは「受験に合格しますように」とか、前向きなお願いが書いてあるものであるが、これは神仏も聞き届けるべきか否か頭を抱えて悩んでしまいそうな、極めて後ろ向きなお願い事であった。嫁とわしと、二人してあまりのショックにしばらく何も言えないでいたが、少なくとも真面目に恐山を訪れる人にとって、ここがどんな場所なのか分かったような気がした。

本堂の裏手というか横の方には、荒涼とした灰色の山。最初に遠くから見た山がこれである。見たことのない背の低い枝ばかりの植物と、腰の高さほどに小高く積み上げられた石の山。そして、いくつかの石山のてっぺんでは、からからとさびしげな音を立てて風車が回っている。そんな光景が、ずっと先まで続いているのである。これが「賽の河原」というものであろうか。死者を供養するための石の山。風車は幼くして亡くなった子供の霊に供えられるものだと聞いたことがある。

湖の傍の砂浜に足を運んでみれば、砂に混じって硫黄の塊がごろごろと転がっていた。浜に寄せる波も、硫黄分を含んで黄色く濁っている。とても普通の動植物が生きられる環境ではない。ふと顔を湖面から上げてみれば、湖の向こう側には、我々がクルマで通ってきた道や山々が見える。見えるのだが、どうにも違和感があるのだ。ついさっき通ってきた場所なのに、だいぶ遠くにあるような。いや、遠くにあるというよりは、別の次元に存在しているような。つまり、決して冗談ではなく、あたかも自分が「あの世」の側にいて、「この世」を見ているような気がしてくるのである…。けれどそれは、一刻も早くこの場から立ち去らねばというような恐怖感を伴うものではなく、どちらかといえば妙な心の落ち着き、もっと言えば安堵感に近い心理状態と共にもたらされた感覚であった。あの絵馬と硫黄の臭いと風車の音に感覚がやられてしまったのであろうか。

実はこれと同じような心理状態をかつてインドで味わったことがある。それはガンジス川の畔の街バラナシに滞在していた時であった。バラナシの街はガンジスの北の川沿いに広がっているが、ボートで川の向こう岸、つまり南に連れて行ってもらえるということで、試しに行ってみたのである。その向こう岸から眺めたバラナシの街は、川を隔てた向こう側というにはあまりにも遠くに感じられ、「もう戻れないかも…」という漠とした不安も感じたのであった。ちなみにボートの船主によれば、やはりガンジスの南岸はヒンズー教でも「あの世」に当たる場所らしく、ごく一部の身分の人しか住んでいない(というか、そこしか住めない身分)という話であった。ちなみに「あの世」は動物のものかはたまた人のものか、無数の乾いた白骨が散乱していたり、首のないワラ人形が落ちていたりと、あまりにも「……」という状況であった。

とにもかくにも、人の死と密接なつながりを持つ場所というのは、この世であってこの世ではない、ただならぬ雰囲気を持っているということがよく分かりました。少なくともあの地に立ったときの感覚は、一度味わったら死ぬまで忘れることはないでしょうねえ…。恐山の名は伊達じゃない。恐るべき山でございました。
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2008年03月28日

桜のおもいで


上のニュースについて。昨日に引き続きチベット暴動と北京オリンピック問題です。もはや完全にEU対中国の構図に。環境・貿易・人権と、EUがこの問題の沈静化の対価として中国から引っ張り出したいテーマはいろいろあると思います。それにしても、こういうときのサルコジ大統領の立ち回り方というのは本当にセンスが良いですね。

それに引き換え…というのも酷ですが、福田首相は明らかにもう辞めるつもりですね。「道路特定財源の09年までの一般財源化」という、絶対にできないことをぶち上げたのは、あとで責任を取ってやめるというシナリオをすでに描いているためでしょう。そうでなくとも、「道路」というパンドラの箱を開けてしまった以上、古賀さんら道路族議員と国交省から「始末」されますわね。辞任はいつだろう。

さて。

いつの間にか都心では桜が一斉に咲き始めましたねえ。いつもよく丸ノ内線を利用しているのですが、今日の朝はいいことがありました。四ッ谷駅は丸ノ内線では珍しく地上駅なのですが、トンネルを抜けた瞬間、明るい陽射しと一緒に、鮮やかに咲くたくさんの桜の花が視界に飛び込んできて、思わず心を奪われてしまいました。こういうことがあると、一日が幸せに送れそうな気がしてきますね。いいですなあ、春は。

というわけで、今回は趣向を変えて、桜にまつわる個人的な話を。

自分はそんなに風流を解する人間ではありませんが、ちょうど今頃の季節だったか、ふと思い立って、金沢まで桜を見に一人旅に出たことがありました。兼六園が有名でしょ。

節約のために青春18きっぷで行ったんですが、鈍行列車しか乗れないんですよね。それが若人の旅情を掻き立てるんでしょうが、わしの場合は夜を明かそうと下車した街があまりにも暗くさびしかったので、耐えられなくなり思わず追加料金払って特急に乗りこみました。滋賀の米原という街なんですがね。駅周辺で夜遅くまでやっている店がラーメン屋だけだったんですよ…。

それで何とか金沢にたどり着いたんですが、とにかくもう尋常じゃなく寒い。春丸出しの薄着で来たから、歯なんかもうガチガチ言っちゃってるくらい。しまいに雪まで降ってきて、そのときはもう泣きそうでした。兼六園も桜なんか全然咲いてなくて、松が青々としていたのだけは覚えています。

その後不完全燃焼のまま東京に引き上げてきたら、こっちはやたら温かくて、出発前には枝ばかりだった家の前の桜並木が、もう満開になっていたという。そんな思い出がひとつ。

あとは結婚前に奥さんと行った青森旅行がもうひとつ。こっちはゴールデンウィークに行きました。世界遺産にもなっている白神山地に行くことを計画していましたが、不勉強なまま臨んだため、まだシーズンではないことを現地で知らされ、あえなく計画は没に。そのかわりちょうど弘前の桜が見頃だということで、そちらに行きました。

それはもう本当に見事で。360度どこを見回しても、桜、桜、桜。あれだけたくさんの桜を見たのはたぶん人生初だったんじゃないかな。天気もよくて、ピクニックシートでも広げてお弁当でも食べたいくらいでした。怪我の功名というのか、良い旅になりました。

青森は観光スポットも多いし、美味しいものもあるし、地元の人もやさしいし、国内旅行では意外とおすすめですよ。ちなみにイタコで有名な恐山は、やっぱり「あの世」って感じでしたねえ…。そのときのわしらのショック加減は、また別に一本記事になるくらいの話なんですが…まあたぶん書かないでしょうね。

とまあ、わしの桜の思い出はそんなかんじです。ぬるい文章、ご容赦くだされ。
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2008年03月06日

玄侑宗久氏の話を聞いての考察


上のニュース。一度は矛を収めたトルコ軍ですが、なにやら不穏な情報が飛び込んできました。また始まるのでしょうか…。

さて早いものでもう三月ですね。先日、とある会合に出席いたしました。出席したなんていうほどのもんでもなく、まあついていったというレベルなんですが。

ま、ともかくその会合で、作家の玄侑宗久氏の講演を聞く機会がありました。玄侑氏は2001年に「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞した立派な作家でありながら、実は福島県の臨済宗のお寺の住職でもあるという方です。独自の視点からなかなか面白いことをおっしゃっていたので、ちょっと触れてみようかと思います。

「日本人のこころのなりたち」というタイトルでの講演だったかと思うのですが、玄侑氏の言いたかったことは「最近の日本の政策は日本人のこころのあり方や日本のしくみを無視したものが多く、個人的に非常に腹が立っている」ということでした。

比較文化論めいた話になるのですが、日本と欧米の違いとして、日本では全てのものが横並びであるのに対し、欧米では序列があり、正統・異端があるということ。欧米ではキリスト教の宗派の正統性を巡って多くの血が流された。日本に仏教の宗派はたくさんありますが、どれが一番ということを決めたりはしない。のみならず神道やらキリスト教やら、さまざまな宗教が入り混じる中でも、どれが正統な日本の宗教ということを決めない。さらにいいとこ取りで、どんどん他の宗教の概念を取り入れていってしまうのだそうです。

文字にしてもそう。輸入した漢字を元に仮名を作って併用し、さらに英語まで吸収して、どんどん和製化している。そうやって、よその良いところを長い時間をかけて完全に吸収し、横並びにしてしまうのが日本の持ち味なのだそうです。

人にも差を設けないのが日本流。士農工商なんて言われていた時代もあるが、権力は武士が持ち、土地は農民、技術や財力は商工人、さらにそれ以外の階級として蔑まれていた人にも、実はインフラ整備をはじめとする重要な機能を担わせ、身分の均衡を保っていたのだそうです(この辺はちょっと懐疑的だね)。「みんな同じ」という意識が強いから、逆に今「格差」がことさらに問題視されている。

さて、そういう日本において、性急に導入してもうまく機能しない制度として、玄侑氏は「裁判員制度」を挙げていた。「自分の両脇を気にしながら生きている日本人には向かない」のだそうです。まあ場の空気に流されがちになってしまうのは想像できますわね。

あとは賞味期限という仕組み自体にも疑問を呈していました。賞味期限が過ぎても、本当にだめになるまでには時間がある。そのグレーゾーンを設ける賞味期限の仕組みは、「もったいない」という独自の思考を持つ日本人には合わないのだとか。制度の輸入元の欧米でこのような仕組みが機能しているのは、賞味期限が過ぎた食品はラベルを外し、「次の階級」向けに販売するマーケットが存在しているからだそうです。そのへんの事情を無視して導入しても、うまいこと機能しないというのが持論のようです。

これは個人的にとても賛同しやすい意見ですね。そもそも賞味期限って何のためにあるのかと思っていたら、輸入を増やしたいアメリカが政治的に仕込んだものだという話もあり。自分の舌で確かめるのがよろしいね。

他にもいろいろなことに話が及びましたが、印象に残ったことをかいつまんで記しますと「訓読み」に込められた日本風の物事の解釈というのは、非常に面白かったですね。「心」は「ころころと絶えず変化するもの」という意味を込めて「こころ」。「源」は「水のもと」だから「みなもと」。「椿」は「つやのある葉の木」なので「つばき」。そういう具合に、訓読みを形作る音にしっかりと意味があるのだそうです。考えてみれば当たり前のことなのですけれど、改めて言葉を見直す良いきっかけになりました。

玄侑氏は仏教の知識を軸として、日本の歴史について非常に幅広い知識を蓄えていらっしゃいました。歴史知識に根を張って自分を確立することができるから、今世の中で起こっていることについて、自分なりのスタンスで見識を持つことが出来る。

実は俺も学生の時に、歴史を学ぶ意味ってどうしてあるのだろうと疑問に思っていたことがありました。こうやって自分の思考を形作るベースになるのだということを勉強の前提として伝えていただければ、もっとまじめに取り組んでいたのかもしれませんね。

話の中で玄侑氏は、市町村合併や道州制にも反対していました。逆に、歴史的な観点からもっともっと細かく区分けをしても良いんじゃないかという。道や州の単位でざっくりと自分の出自を規定されることで、歴史的に培われてきた多くの細かい根が断ち切られてしまう。果たしてそれが日本人にとって本当に良いことかという疑問を持っているのでしょう。経済効果の側面もあり、もちろん容易に迎合することはしませんが、市町村が合併し、さらに道州制になってから生まれてきた子供たちの「根」はどうなってしまうのか、気にしていかなければならないでしょうね。短期的なカンフル剤である道州制のもたらす中長期的な影響の検証は、必要だと思います。

そんなこんなで、なかなかためになった玄侑氏の講演でした。今度本でも買ってみよう。ちなみに俺の出席した会合というのは、簡単にいうと山形県出身者の集まりなんですがね。ほとんどが年配の人たちで、俺なんか浮きまくっていたけど(笑)。ほとんど端っこでじっと会場を見ているだけでしたけれど、自分に根がある人たちの集まりというのは、とても幸せな場なのだなあと、つくづく感じました。

ちょっと長くなりましたね。それではこの辺で。
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2008年02月12日

新婚生活というやつ

せっかく結婚したので、たまにはそんな話題を(笑)

一般的には我々夫婦は「新婚」「結婚したて」の部類です。で、職場の人や友人から非常によく「新婚生活はどう?」と聞かれるのですが、特段、どうもこうもないです。

ずっと一緒に住んでいたこともあり、これといって新婚生活らしい特別なこともない。普通にこれまで通りの生活を送っているというだけの話。二人とも割と遅い時間まで働いていますので、家事は二人で分業してやっています。掃除機は俺がかけて洗濯機は向こうが回す、向こうが料理を作って俺が後片付けをする、というような。これが結構うまいこと機能しており、自分が苦手なことをやらなくても済むので気が楽でよいです。

そんな我々夫婦の、「共通の趣味」のようになっているものが二つありまして。

一つは乗馬。文字通り馬に乗るんですが、やってみるとこれが結構面白い。週末に郊外の乗馬クラブに通っております。ちなみに最高齢でオリンピック出場を目指す法華津さん(すごい苗字だ)はいません。当たり前か。

まだまだ初歩の初歩なので、暴れん坊将軍ばりに疾走なんてことができるわけでもないのですが、ちょっと早めに歩くだけでも結構なスピードを感じる。乗り方のこつが分かってくるとどんどん乗っていて爽快感も増してくるので、やりこめるスポーツです。

馬を小屋から出して鞍などの装備をつけるところから、乗り終えた馬の身体を洗って小屋に戻すというところまでやるので、かわいらしい馬ともかなりべったりと触れ合える。馬との触れ合いを利用した「ホースセラピー」という心の治療法もあると聞きますが、確かに接していると気持ちが安らぐという効果もあるような気がします。

夫婦で「乗馬ライセンス5級」という、まあ変な話「超初級」の資格はゲットしたのですが、次の4級までの道のりはぐんと険しくなるようです。ということで、二人で目標を持って楽しく通っております。ちなみに自分では「俺のほうがうまく乗れているだろう」と思っているようですが、向こうはそうは思っていないようです。

もう一つの趣味は任天堂の「wii fit」。古田とかゴリのCMがばんばん流れておりましたので、説明は不要かと思います。そう、あの板です。白いやつ。あれが意外といいんですわ。

体重計と、バランス測定器と、運動型ゲーム機の三つを兼ね備えたようなもので、あれを使って「○ヶ月で○キロ減らす/増やす」と目標を立てては、それを目指して数日おきにやっております。人生で初めてヨガっぽいことをやってみたり、座禅を組んでみたり。やりこめばやりこむほど、ヨガのポーズやゲームの種類が増えていく仕組みになっていて、出来るだけ継続しやすくしてあります。ゲームの中身なんかは本当に子供だましみたいなものなんですが、簡単な分だけとっつきやすく、ものによってはかなりハードな運動も含まれており、非常に実用的です。

その実用的すぎる機能にあまりにも感動したため、思わず実家の両親にもプレゼントしてしまいました。「wii fit」以外の「wii」ソフトを買えば、いろんなゲームを楽しめるのですが、彼らはおそらくそんなことはしないでしょうね…。けどいいんです、別に。

ちなみに「wii」と「wii fit」は昨年末、妻が職場のジャンケン大会で最後まで勝利してもぎ取ってきたらしく、俺が帰宅してみるといきなり家に置かれていました。実はほぼ同時期に俺も、100人以上が参加する会合のジャンケン大会で最後まで勝ち残ったのですが、そのときの商品は小さな小さなボトルワインでした。物凄い脱力感を感じましたが、これが理由で妻に頭が上がらないとか、そういうことはないです。たぶんね(笑)
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2007年12月30日

伏龍・鳳雛とは言わないまでも

訳あって新年のご挨拶ができませんので、その代わりに…というような記事です。

皆様、毎年毎年お世話になっておりますが、今年もやっぱり大変お世話になりました。

清水寺で毎年やっている「今年の日本を表す漢字」。2007年は「偽」でしたね(かつての記事で今年は「斧」とかそんなことを言っていたような気がしますが、まあ順当に考えればこれですわな。それにしても船場吉兆の女将は俺の中で伝説的な存在になりつつある(笑))。日経プラスワン(土曜版)では「自分にとっての今年の漢字」というのをやっていましたが、それでは「忙」が一位になっていましたね。

皆様にとっての今年一年はどんな年だったでしょうか。漢字で表すとどんな文字でしょうか。

俺にとっての2007年、漢字で表すと何だろうと考えてみると…、「漲」なのかなという気がします。「みなぎる」という字です。遠くの的に狙いを定めて力強くぴんと張りつめられた弓のような、ぐっと身を膨らませて今か今かと春を待つ花の蕾のような、そんな状態。

今年は本当に良い仕事が色々と出来ました。どこまでも謙虚にあらねばなりませんが、着実に自分が成長していることを実感できる「成果」があった。次はもっと高いレベルの仕事ができると確信できる「手ごたえ」があった。だから躍動する来年に向けて、力を漲らせている状態。それが今年だったのかなと考えております。

もうひとつ結婚ということもあります。今年の初めからずっと準備をしてきたけれど、それはあくまで準備であって、本当に頑張らなければならないのは、来年。もしかしたらこれまでの人生で最も自分と言うものが試される年かもしれないなと思いつつ、期待しながらもものすごく緊張している状態です。

人生の九割くらいを自分のことしか考えずに生きてきて、最近ちょっとだけ周りや世の中のことを気にしながら生きるようになって、来年からは二人で生きていかなければならない。自分のことは自分が良く分かるし、自分で何とか生きていけるし、生きてきたんだし、生きていくんだろうけれど、結婚によってそれとは次元の違う課題ができ、課題を乗り越えていく責任と、責任を果たすための能力が求められるのだから、これは大変だなと。

無責任な俺が珍しく「責任」を感じていることがすごい(笑)

果たして来年の年の瀬に、「今年の自分は『躍』だった」と自信を持って言えるかどうか…。なんとしても『厄』なんてことにはならないように、がんばります。それでは。
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2007年11月01日

犯罪がしやすいから、警察官になったんだよ。

…という感じの登場人物が出ている芝居を観ました。はい。


…で、話は450度くらい変わるのですが…。

私事ではございますが、今度結婚します。

今度ってのは、来年の一月のことです。

相手はまあ、知ってる人も知らない人もいるかと思いますけど、大学時代から良く良く知っている女性です。

仲良く楽しい家庭を作っていこうと思っておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。

昨年くらいから、飲み会なんかに顔を出すたびに、知人が結婚や出産するという話を聞いていました。そのときは「早いなあ」「よく決断したなあ」と漠然と思っていたものです。それがいつの間にか自分もそんなステージに立っていたのかと思うと、とても不思議な気分です。

結婚は、構想から着地までの狭間がないものだなと思います。あまり結婚なんてことを意識していない段階では、どこまでもどこまでも遠いところの話でしかないのに、いざ結婚ということになれば、あとは全て現実的な相談・手続き・段取りが続き、気がついたときには「もう結婚していた」となるのでしょうね。本当にあっという間で、気持ちの迷いだとか、揺れだとか、そんなものを感じる間隙がない。それが正直なところです(読み方によっては物凄く意味深ですが、決して変な意味じゃないですよ!!)。

結婚前も結婚後も、生活自体はさほど変わることはないので、結婚を経てどんなふうに自分の気持ちが変わっていくか、正直なところ良くわかりません。人間として一回り大きくなれたらよいなあ、なんて考えていますけど。お互い支えあって、変わらず暮らしていけれるのが一番かなと思っております。

…と、ご報告になってしまいましたが、そんなわけでございます。
今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします。
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2007年08月20日

念願の甲子園に潜入した

今回は完全に日記。

先日、全国高校野球選手権大会が行われている甲子園に行ってまいりました。単純にいうと、甲子園を見てきた、ってことですかね。実は生まれて初めて行きました、はい。
だいぶ前の記事でも、子供の頃から夏は「カルピス・そうめん・甲子園」というくらい甲子園漬けの暮らしを送ってきたことを書いていた。それくらいに好きなので、喜びもひとしおである。

大阪は猛暑。とはいえ東京よりはまだ涼しく感じられた気がします。まだ朝の八時だというのに、甲子園の駅は観客でごった返している。早い時間ならば良い席でも余裕で座ることが出来るだろうと考えていたのだが、甘かっただろうか。急いで球場内に駆け込むと、なんとか屋根のある席を確保できた。学校の応援で来ている学生はじめ日差しのあるところに座っている方も多数いらっしゃるが、見ているだけでも暑そうである。

やがて第一試合が始まる。両チームの選手が、それぞれのベンチから勢いよく走り出してくる瞬間。主審のプレイボールの合図で長いサイレンが響き渡る瞬間。青春ど真ん中な、突き抜けるさわやかさが好きである。

で、まあ後は「球が高めだ」とか、「ここはスクイズだ」とか、適当なことを言いながら観戦をするわけですが、段々と注意が散漫になって、「あのビールの売り子はかわいい」とか雑念が生じてくるわけです。甲子園でビールを飲むというのを一つの目標にしていたので、ビールを買うわけですが、出来ることなら綺麗な売り子から買いたい。けれど、そう思って待っていると、なかなかこっちまできてくれない。そんなところに、人生の悲哀を感じたり。そしてやっぱり、球場のビールは、ぬるい。

結局その日は二試合を見て、昼過ぎには帰った。応援していた学校は、残念ながら負けてしまった。そういえば、敗れた選手たちが泣きながらかき集めている「あの砂」は、いったいどこの砂なのだろうか。ううむ。
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2006年08月10日

甲子園と俺

まだろくに生きてもいない若造が何を言っているのかとお叱りを受けそうだが、最近本当に自分の老いを実感する。階段登ると疲れるわ、筋肉痛が二日後に来るわ、もの覚えは悪くなるわで、もう大変。身体・知的能力がこの歳にしてこんな急激な下降曲線を描いているということは、もしかすると十年後には能力値がマイナスに突入してしまうのではなかろうかと、まじめに心配してしまう。そのくらい、年老いております。

そんな俺の「老い」の実感に拍車をかけるイベントこそが、毎年二回行われる「甲子園」=全国選抜高校野球である。

小学校の頃、夏休みは甲子園の高校野球ばかり見て過ごしていた。「カルピス・そうめん・甲子園」は、俺の夏の三点セットであった。お昼ちょうどにNHK総合からNHK教育に放送が切り替わるのだが、そのタイミングを逃さずリモコンを操作していた。星陵時代の松井や、横浜時代の松坂など今のスターたちが続々と登場していた頃とは言え、よくもまあ飽きもせず毎日見ていたものである。

ある年はついに俺の夢の中にまで甲子園は侵入してきた。小学五年生の俺がTシャツと短パン姿で、智弁和歌山の選手たちに混じって何故か円陣を組んできばっている。背が足りないのでつま先立ちだった。これを妹に話すと死ぬほど笑い転げていたが、当時の智弁和歌山は鬼のように強くて毎年トーナメントのかなりのところまで駒を進めていたのだ。幼い俺の脳裏にもきっちりインプットされるわけである。

さらにある年、母親が「毎日バックネットで甲子園を観戦しているおじさん」の存在に気付き、俺もそのおじさんが気になって気になって仕方がなくなった。「桐生」という漢字の入った赤い帽子に赤いジャンパーを着用していた気がするが、本当に毎日同じ位置に腰掛け、朝から晩までずっと試合を見ていたのだからタダモノではない。そもそも仕事はしなくてよいのか。毎年春夏はおじさんをテレビ越しに発見しては、「桐生のおじさん今年もいた!」などと妹と声をあげていたのだが、俺が高校生になったある年を境におじさんを見かけることはなくなり、赤の他人ではあるがその安否をかなり気にしている。

そんな思い出深い甲子園であるが、白いボールを追いかけて溌溂とプレーをするお兄ちゃんたちは、気がつけば自分より遥かに年下の少年たちになってしまっているのだ。そりゃあ歳もとりますよ…。甲子園にしている兄ちゃんたちの歳に自分がなるなんてのは、それこそ一生かかっても訪れないくらいの先の話だと、俺は本当に思っていた。それがいつの間にか追い越してしまって。時間は絶えず流れ続けているのだ。

小学校の頃、夕方に甲子園を見た後に、夜民放でプロ野球を見ると、なんだかすごく嫌な気分がしたものだった。バッターは、打球が明らかにアウトだと分かる時は、力を抜いてちんたらと走る。外野手ものんびり捕球している。汗のひとつもかいてない。昼間の高校球児たちは、どんなに無理だと分かっていても全力で一塁に滑り込んだ。観客席に入るファールでもフライアウトを狙いに走った。一試合一試合全力で、思い切り闘って、笑って、泣いていた。

高校球児たちの歳を追い越してもう何年も経つ。もしかしたら、俺もいつの間にか、プロ野球選手になっていはしないだろうか。青空の下闘っている彼らの姿を、ふとテレビ越しに見かけるたびに、そんなことを考えるのである。
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2006年06月04日

続々・ラーメンと俺

今回の文章には、一部不愉快な表現が含まれていることを予めご了承ください。

もう「二郎と俺」と言ってもいいような話をいくつか。
前回は二郎との出会い、別れ、そして再会について書かせていただいたが、その後二郎を追い続ける間にも一度だけ、「さすがにもう勘弁してくれ」と思わせるような事件が起きた。大学四年生の夏頃であったか、ある雨の日に二郎本店に入った。ただでさえ汚い店内であるが、雨が降るとさらに悲惨である。床は泥まみれで、何やらぐしょぐしょになったスポーツ新聞が落ちていたりして、「ここは公衆便所の床か」と思うくらいであった。もちろんそれはそれで良いのだ。二郎が汚いことは百も承知で通っているのだし、それが嫌な客は来なければいいというくらいの二郎シンパになっていたものだから、そのくらいで挫けたりはしなかった。

本店は全てカウンター席で、そのカウンターはラーメンを作る親父を囲むような「コの字」型になっている。全て埋まると13人ほど入るだろうか。その日俺の席は「コ」の字の一番左端で、左隣には薄汚れた店の壁があった。いつも通り「小」を注文し、いつも通り黙って待っていると、いつも通りラーメンが来たので、いつも通り食った。いつも通りの味だった。だったのだが、その一瞬で、食欲が全て奪われた。

軽く箸を休めたそのほんの一瞬、俺は何気なく、本当に何気なく、自分の左隣の壁と、カウンターとの合わさっている部分をちらと見たのだ。するとなんと、その合わさっている部分の微妙な微妙な隙間に、ゴキブリがびっしりと、触角を揺らめかせながら並んでいるではないか!!!!!!!!!!

頭がくらっとして、次の瞬間猛烈な吐き気が襲った。さすがに俺も大人、その場で吐きこそしなかったが、もはやこれ以上二郎を食うことは不可能に思われた。TKOだ。このおびただしい数のゴキブリたちは、まさか机の下に置いてある俺のかばんの上を行ったり来たりしていないだろうか。夜中にこのどんぶりの中を走り回っていないだろうか。そしてスープ鍋の中に落ちたまま、加熱されて跡形もなくどろどろになっていたりは…。身の毛がよだつとはまさにこのことである。その後申し訳程度に二、三口箸を付け(まだ食うのかって感じですが)、俺はそそくさと席を立った。金輪際この店には来るまいと固く心に誓いながら…。

と言いつつも、実はその年の冬に、俺は己に課した禁を破り二郎復帰を果たす。冬ならばゴキブリもいるまいと思ったからであった。それでも雨がトラウマになっていたので、ごく寒い晴れた日だけ行くことにした。いつも自分の席があの左端の壁際になりませんようにと祈っていた。さすがにゴキブリにお目にかかることはなかったが、行けば行ったで「人災」もあった。ある日、俺が出てきたラーメンを食いながらふと親父を見ると、こともあろうにスープ鍋の上でジャブジャブと手を洗っているではないか。もちろんその水はゴー・イントゥー・ザ・鍋。「俺のラーメンを作った後で良かったぜ…」などと思いつつも、俺が店に入る前にもやっていたに違いないと悟り、大変暗い気持ちになったものである。

こんなことがあっても、俺は大学を卒業するまで結構な頻度で二郎に通っていた。やっぱり自分は二郎ジャンキーだったのだなあと思う。客を二郎中毒にさせているのは、親父がどんぶりにふんだんに入れているあの白い粉末か、スープに溶け込んだゴキブリの成分か、はたまた親父の手から染み出るホルモン物質か。それは永遠に謎である。
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2006年05月28日

続・ラーメンと俺

ラーメン二郎。

初めて食べたのは、大学一年の時だった。サークルの先輩に連れて行ってもらったその店は、間違っても決して自分から入りはしないであろうボロボロの佇まいであった。床も油でぬめるわ、戦前からそこにあったかのような謎の機械の横に座らされるわ、出てきた水のコップも油でぬめるわで、肝心のラーメンを食べる前から気が滅入ってしまうような有様だった。

そしていよいよラーメンがやってきた。どんぶりぎりぎりまで汁が入っており、山のような肉と野菜がうず高く積みあがったそれは、およそ今まで口にしてきたどのラーメンとも違う、まさに「二郎」であった。ちなみに俺が注文したのは「大ダブル」というやつで、一番ボリュームがあって値段も高い。麺の多さで小と大、肉の多さで、何もなし・ブタ・ダブルと階級が上がっていくのである。男は大ダブルを食わなければいけないという、先輩のむちゃくちゃな指令で頼んだ大ダブルは、俺を戦慄させるほどのボリューム感で迫ってきた。聞けば店の親父が絆創膏を巻いた指を汁に浸しながら運んでくることもあるという。やめてほしい、心から。

二郎の恐ろしさを山に例えるなら、店の佇まいとラーメンのビジュアルなんてものは、せいぜい3合目、良くて5合目くらいなものである。食えば本当の恐ろしさが分かる。麺はゴム紐のような食感で、噛むとぶつぶつと切れてまるでコシというものがない。しかもスープと全くなじまない。一口で、「これはいかがなものか…」と思うのだが、簡単に残すわけにも行かず、とりあえず頑張って食う。食うのだがこれが一向に減らない。まるでどんぶりの底から麺が湧いてくるかのようで、それはもうもの凄い量の麺が潜んでいることに途中で気付く。麺だけではなく肉も野菜もいっかな減らない。普通のラーメンなら多いほどうれしいこれらの具材も、ここまで多いと味もへったくれもない。もはや仏門に下らずとも無間地獄を知る心境である。

ラーメンが残りあと少しというところがクライマックス、山頂間際の崖っぷちである。もう胃の中は二郎で満たされ、食欲も完全に失われる。もはやただ惰性で箸を動かすのみである。結局その時は「残すわけにはいかない」という気持ちだけでなんとか食べきったのだが、完食して抱いた気持ちは「うまい・まずい」を通り越して「もう二度と食わない」であった。

それから二年経った大学三年の夏ごろだったろうか。俺は二郎と再会した。

新しいキャンパスのすぐ近くに、ラーメン二郎の本店があったのだ。本店の味は他店とは違う、格段に美味いという話を聞いた私は、二年前の苦い思い出を反芻しつつも一か八か本店に乗り込むことにした。例に漏れず汚い店の前には例に漏れず長蛇の列ができていた。中を覗くと白い下着用Tシャツを着た親父が陽気にスタッフの男と話しながらラーメンを作っているのが見えた。これが邪悪なラーメン屋の総本山に君臨する男か…。一時間くらい待って食券を購入。さすがに今回は「小」で十分だと思った。席につくと水が出された。例に漏れず油でぬめるコップ。飲むのも躊躇われて、二年前の嫌な予感が頭をよぎった。

一心不乱にラーメンをすする隣の客を横目で伺いながら待っていると、いよいよ俺のラーメンが出てきた。ニンニクを入れるかと聞かれたので、ひとまず「はい」と答えておく。指でニンニク片をつまんでどばと入れる親父。おいおい、そりゃ入れすぎだろ!とか突っ込む間もなく、野菜が富士山のように盛られたアイツが目の前に現れた。割り箸を割るも、あまりのボリュームで何処からどう食ったものやらわからない。箸でがしがしと野菜を突き崩し、スープの中から麺を引きずり出して、思い切って一口食った。

うまかった。

太い麺だが意外なほどにスープに良くなじんだ。スープの塩加減と、ニンニクの風味が絶妙だった。以前食った二郎と比べてとか、そういう話ではない。絶対的に、美味かった。

あとはもうひたすら麺と野菜と肉を口に運んだ。汗をだらだら流しつつ、10分くらいで間食しただろうか。さすがに最後は腹がきつかったが、決して嫌な気はしなかった。「もっと食いたい」と思いながら食うことができたから。食い終わって外に出ると、汗をかいた顔に吹きつける風が心地よかった。あいかわらずの行列だったが、今はその意味がわかるような気がした。

以降、俺が二郎にのめりこんでいったのは言うまでもない。朝飯と昼飯を兼用で、ある時は晩飯も兼用で、週に何度も足を運んだ。味も価格もボリュームも満足のいく、自分にぴったりのラーメンだと思った。「今まで食った中で最高のラーメン」であると口コミで宣伝して回っていた気がする。

悲しいことに、今ではめっきり二郎を食うこともなくなってしまった。機会があればまた行きたいとは思っているのだが、なかなかその機会も訪れないまま時間がどんどん経っているのが現状である。もっとも今の俺のコンディションであれを完食できるのか、甚だ怪しいものではあるが。

さて次回は俺と二郎にまつわるエピソードを諸々ご紹介しようと思う。全く身にならない話ではございますが、よろしくお付き合いください。それではまた来世。
posted by サイダー at 04:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

ラーメンと俺

「俺シリーズ」いかがでしょうか。
何か書いて欲しいテーマでもあれば是非コメントくださいね。気が向いたら書きますので。なるべく「物」についてが良いね。

さて、「オバQ」の小池さんほどではないが、ラーメン大好きである。家で作るラーメン、インスタント・ラーメン、店のラーメン、全部好き。醤油味、味噌味、塩味、豚骨味、全部好き。逆に、ラーメンが嫌いという人も日本人には珍しいのではなかろうか。健康上の理由で避けている人を除いては、ラーメンと聞いて嫌な顔はしないだろう。それほどまでに日本人の味覚にマッチしているラーメン。日本人のDNAのあの二重螺旋は、まさかラーメンでできていたりはしないだろうか。

思えば小さな頃から毎週一回はラーメンを食べていたような気がする。どこかで外食となれば「ラーメンラーメン」とねだった。駄菓子屋においてある50円のカップラーメンは、小遣いに余裕があるときにだけ食べられる高級品。カレー味が好きだった。部活の帰りにコンビニでカップラーメンを買って食べながら帰るのは最高に贅沢なひと時だった。大学受験勉強中は、母が毎晩袋入りラーメンを夜食に作ってくれ、玉子を落として食べると本当に美味しくて、あと3時間くらい頑張ろうと思えたものだ。食べてそのまま寝てしまったこともあったが。

大学での一人暮らしでは、一気にラーメン世界が広がった。昼は学食でラーメン。おばちゃんに無理やり「おまけにギョウザをくれ」などと言って困惑させたものだ。夜もがっつりラーメン。住んでいる町の周りには何件もラーメン屋があったので、飽きずに毎日のように食べていた。とあるラーメン屋でニンニクを入れすぎて、翌日教室中に凄まじい邪気を放ったあの日が懐かしい。座席が離れた知り合いから「お前くさいわ」と言われたのはなかなか衝撃的だった。

酒を飲んだ後もやめときゃいいのにラーメンを食っていたし、麻雀をやるにも、負けたらラーメン一杯などと言って夜遅くに食いに行った。友人とふたりでラーメン屋に入り、ラーメン一杯で粘って粘って、看板までの約三時間、ひたすらエロ話をし続けたのも良い思い出である。ちなみに俺たちのような客がいたせいか、その店はほどなく潰れてしまった。大変申し訳ないと思っている(嘘)。

で、「ラーメン二郎」である。こいつを抜きにラーメンの話をするわけには行くまい。東京周辺にいくつもの系列店を持ち、そのいずれもが日々行列をなすほどの人気を誇る、あの恐るべきラーメン屋をあなたはご存知であろうか。それはもうとにかく衝撃的な出会いであった…。

ここから先は、ちょっと長くなりますのでまた次回ということで。ではまた来世。
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2006年05月12日

料理と俺

今回の文章には、一部不愉快な表現が含まれていることを予めご了承ください。

いろんな意味で「包丁を握らせてはいけない」と思われがちなワタクシですが、実は料理が好きなんです。「どちらかと言えば」というくらいの好きではなくて、「絶対的に好き」。時間とカネと気力さえ満足にあれば、毎日だって作るのではないか。

小学校の頃(この言い回し多いな〜)、毎週日曜日は親も結構遅くまで寝ているので、俺が朝ごはんを作ったりもした。だいたいミックスベジタブルを加えたチャーハンだが、味はしっかりしていた、と思う。ニンジンは固いままだったが。調理実習も積極的に仕切っていた気がする。

中学校では家庭科の授業で「みじん切り」「さいの目切り」などの食材の切り方を覚えさせられ、クラスで完全に覚えることができたのが俺一人だった。ご褒美に先生からハワイ旅行のパンフレットをもらった(当時は何も考えず喜んでいた。若かった…)。

高校時代は受験勉強とテレビゲームばかりやっていたため、料理熱にうかされることもなかったが、大学時代には一人暮らしを始めたことにより再び発熱。外食だとカネがどんどん飛んでいってしまうため、ケチな俺は極力自宅で調理をすることにしたのであった。

一人暮らししたての春は、親がどかどか食料を送ってくれたこともあってそれなりにまともなものを作っていたが、それが尽きてくると徐々にバランスの悪い食事に変容。試験用マウスに投与すると、もしかしたら三日で絶命、なんてことになりかねない炭水化物・脂肪偏向の食事をしていた。

しかも自宅で調理をする場合、なんと言っても面倒くさいのが後片付けである。油ものを洗うのなんか最悪だし、何より「食ってしばらくは洗う気が起きない→放っておく→どうでも良くなる」という地獄のスパイラルに巻き込まれ、後々悔やみつつ多大な生命エネルギーをもってして事に臨むというパターンが非常に多い。

俺も嫌なものは避けたいという本能が一応は働くので、徐々に使用する食器の数を減らしていき、最終的にはフライパン一個にあらゆるものを入れて食う、ということが常態となっていた。肉やら野菜やらご飯やらをとにかく全部フライパンに入れて食う。冬はこれが鍋になる。片付けも大変楽でよいのだが、自然と食事が単調になっていく諸刃の剣である。とは言いつつも、日々の調理自体は楽しいものであったし、自分で言うのもなんだが何を作ってもそこそこの味には仕上がってもいた。やはり根っから料理好きなのである。

どうして料理が好きだったのか、やや掘り下げて考えてみると、おそらくは実験めいたことが好きだったからというところに行き着く。「これを入れたらどうなるだろう」「こんなことをやってみようかな」という創意工夫が効くこと、そしてその結果が目に見え味に反映されることが楽しかったのだろう。

大学時代に一人暮らしをしていた時も梅干を使っていろいろと試したし、小学校の頃は中華料理の番組に影響を受けて、ケンタッキー・フライドチキンの食い終わった骨とネギを煮込んで中華スープを作ろうとしていた(ホントに馬鹿)。古代の酒の造り方をテレビで紹介しているのを見てそれを真似して、口でよく噛んだご飯を茶碗に入れてずっと放置してみたり(ああ、ごめんなさい…。でも酒っぽい何かができていたよ!)、ぶどうの皮を絞ってワインらしきものを造ろうとしたり…。ろくなことをしていないことが良くわかる。

さて、この世にうまいものは山ほどあるのだろうが、一応俺の頭の中には「理想の料理」がある。といってもあの名作「美味しんぼ」で登場したものなのだが。アメリカ大統領にも頭を下げなさそうなくらいにプライドの高いあの海原雄山が、ヒロインである栗原さんに、自分のアツアツ新婚時代を語る、という何ともショッキングな出来事があった。理想の料理はその中で登場する。もちろん「奥さんの身体で女体盛り」とかそんな破廉恥なものではない。

海原雄山はその昔緑の深い山奥に奥さんと二人で暮らしていた。奥さんの毎日の朝食作りは、まず渓流の水を汲んでくることから始まる。渓流の冷たく澄んだ美味しい水を使い、釜でふっくらと炊き上げたご飯。家の畑で採れた大根を使った味噌汁。大根の葉は細かく刻んで軽く塩で揉み、浅漬けに…。最後に雄山氏曰く、「これが美味くないわけがない」。その瞬間、俺の脳天に彼の言葉が直撃。どくどくと脳内分泌液が溢れ出し、胃袋を激しく刺激。「ああ、一度でいいからこんな飯を食ってみたい!」と無性に腹が減ってきたものである。

今もこの文章を書きながらどんどん空腹になっている有様である。こんな料理を作ってくれる方、大募集。渓流も大募集。

えー、腹が減ってしまいましたので今回はこの辺で。ではまた来世。
posted by サイダー at 02:38| Comment(4) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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