2009年03月31日

仮称「勉強会」について


お疲れ様です。おそらくは今年度最後の更新です。

小話。わしが大学時代に就職活動をやっていた頃から履いていたビジネス用革靴がありまして。踵の辺りがぼろぼろになっており、捨てようかとも思いましたが、ひとまず駅ナカでやっている靴修理の店に出してみようじゃないかと思って家から持ち出しました。店頭には「もう20年くらいいろんな人の靴を見ているよ」風の熟練したおじさんがおり、靴を見せて相談してみると、「こりゃあダメだな」と(そんなぞんざいな言い方ではないけど)。要所の革がだいぶ痛んでおり、張り替えようとすると余計変なことになっちゃうようでした。

もともと捨てようと思っていた革靴でも、こうやって改めて「捨てるしかない」と認識させられると、寂しく感じるものですねえ…。と、そんなこぼれ話でございます。

上のニュースについて。ドバイ……おそらくは昨年の前半と後半とで、180度様相が変わった都市のひとつではないでしょうか。たまたま先日NHKスペシャル「沸騰都市」で、「沸騰都市のその後」という題目で番組をやっており、その中でドバイが登場。08年初にはこの世の建設機械の3分の1が集中しているなどと言われていたあの都市も、リーマンショック以降、不動産価格が4割、上場会社の株式価格に至っては7割も下落するという、地獄の様相を呈しているそうです。不要になった建設機械が捨て値同然でオークションに出され、それを求めてやってくる建設業関係者で街が賑わっているという、なんとも皮肉なエピソードもありました。

わしもドバイには昨年新婚旅行で訪れているのですが、その時は今とは別の意味で「ドバイの最後の輝きを見よう」と思って旅行先に選んでいました。景気が上向く一方でしたから、「今後別の場所に第二・第三のドバイができるだろう」と思っていたんです。どうやら、当初の目論見とは真逆の「最後の輝き」を見てきたようですね…。カルティエも、引くに引けない崖っぷちの決断での出店でしょう。旗艦店のPR効果はさておき、実利ベースでは非常に厳しいラインではないでしょうか。

さて。今回も「雑感」ではなくてですね、なかば、やっていることの告知に近いです。

タイトルのまんまなのですが、知人らと共同で仮称「勉強会」という集まりを始めました。参加者が持ち回りで講師となり、仕事のことでも趣味でも何でも良いので、とにかくテーマを決めて一時間話をする。受講者はその話を聞きながら、意見やら疑問やらを自由にぶつけてみる、という非常に単純な集いです。

初回を今月開催しまして、発起人であるところのわしの友人とわしが講義をしました。彼は弁護士なのでその知見を生かしつつ「人を裁くことの意義とその変遷」というタイトルで裁判員制度についての話をしました。制度創設に向け当初掲げられていた目的が、どうも現状追求されている制度の機能とかけ離れているのではないかという話や、実際に裁判員になったときに当事者が行うであろう「事実認定」の行い方の話など、興味深い話やためになる話が聞けました。わしは迷った挙句、自分のいる業界に絡めての話を少々しました。

参加者は発起人が少しずつ引っ張ってきた知り合いと合わせ8名ほどのこじんまりとした規模ですが、学生時代のゼミのような乗りで、かえって良かったように思いました。講義の後は、もちろん近くの居酒屋で懇親会。そこは昔からわしの大好きな店でございまして、当然のごとく勉強会計画初期段階から、そこで懇親会をやるということを重要事項として織り込んでおいたのでした(笑)。わしは行けなかったのですが、初対面同士の人もそこそこいる中で、自然と二次会に行こうという声が上がったのはうれしいことでした。

などと、思い出を日記のようにつらつらと書いていても仕方がない。まあ要は、参加したい人がいらっしゃれば、ぜひお越し下さいということが言いたいのであります(わしの連絡先知っている人に限定されちゃいますが…)。

そもそもこの集まりを始めた理由は、知識の共有とでも申しましょうか、仕事でも研究でも趣味でも、人にはそれなりに経験に基づいて語れる分野があるはずで、それらの知見を皆で教え合えたらよいなと考えたからです。素人が専門の本を読むよりは話を聞くほうが吸収しやすいし、時間もかからない。浅くはあるものの広い視野の獲得にも寄与できる。悲しいかな日々自分のやるべきことに追われてしまうとなかなかインプットの時間がないし、自分の「本業」と関係なさそうな物事についてはどんどん遠ざかっていってしまいます。だから無理やりでも、なんの役に立つのか分からない話を聞く場を設けよう、と。堅い経済の話でも良いし、おいしいコーヒーの淹れ方でも良いし、旅で訪れたウズベキスタンの生活でも何でも良い。もしかしたらその中で偶然、自分の仕事や研究に影響を与えるようなスマッシュヒット講義に巡り合えるかもしれませんしね。可能性は低いですが、何もやらないよりは高いでしょう。

個人的には、西周が「エンサイクロペディア」を日本語に訳したところの「百学連環」という言葉の持つイメージを大切にしつつ、名番組「タモリ倶楽部」で大の大人たちが電車に乗ったり、音響機材見てわあわあ興奮しているようなマインド・好奇心もまた大切にしつつ、大学の教養学部をもう一度やりなおす「大人の教養学部」というか…、まあそういう場にしていきたいなあと思っています。

やがてはアメリカ軍基地や裁判所法廷など一人ではなかなか行かないようなスポットに皆で行ってみる「大人の社会化見学」をやったり、多少参加費を徴収して、誰か著名人に講演に来てもらう催しなどもやったりしてみたいですね。

よほどのことがない限り毎月一度のペースでやっていこうかと考えています。次回開催は4月18日(土)。場所は都内某大学校舎内(正式な手続経て借りております)。日本の昔の文字の解読方法や、旧約聖書、IT業界についての講義が開かれる予定です。さっそくむちゃくちゃなテーマになってきています。そういうのが、いいんですよねえ(笑)。

上記趣旨に賛同の上参加ご希望の方はどうぞご連絡下さいませ。こういうオープンな場で告知しておきつつ非常に非常に恐縮ですが、あくまでリアルなわしを知っている方を念頭に置いております。それ以外で参加したいという方が万が一いらっしゃれば…連絡方法などやり方検討いたします、はい(いないと思うのですが…)。

それでは、新年度もがんばりましょう&よろしくお願いします〜〜。
posted by サイダー at 09:16| Comment(5) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

心に響いた一言


おつかれさまです。ここのところ割と調子よくブログを更新しております。もしかして自分、暇なのかしら……?

上のニュースについて。ついに、モルガン・スタンレー証券が三菱に両膝をつく形になりました。昨年MUFGによって9000億の資本注入が行われて以来の新たな動きです。社名などは今後詰めるということですが、まあ必ず名称の先頭には「三菱」が冠せられることでしょうね。

非常に気になるのは統合後の社員の待遇を、どうやって調和を取っていくかということです。金融業界のことはよくわからないのですが、モルガンと三菱UFJとでは、社員に支払われる給与・報酬に非常に大きな格差がありそうな気がしております。あくまでイメージですが、端的に言うと、モルガンの方ががっつりもらっているように感じております。そんなモルガンにいた人たちが、新しい会社での待遇に満足できるものかどうか。モチベーション維持・人材流出阻止という観点から、非常に気になります。

それにしても、わしが学生だった頃は「外資系金融万歳」という感じで、帰国子女はじめ英語ができる人はこぞってモルガンなどの外資系に就職したがったものです。それが今や、リーマンは破綻し、AIGは国に命を救ってもらい、モルガンも三菱がカネを出さなければ死んでいたというところにまで至っているのですから、隔世の感がありますね…。それでもなお外資系人気が衰えていなかったとしたら大したものですが。

さて。今回は「〜〜についての雑感」といういつものタイトルと趣を変えてお届けいたします。これまで生きてきていろいろな人に出会い、さまざまな経験をして、なんとか今までやってこれているわけですが、そんな中、今でも心に残っているさまざまな一言がございます。直接聞いたり、本で読んだり、テレビで見たり、伝わり方こそ違えども、どれもわしの人格形成に非常に大きなインパクトを与えた言葉。備忘録も兼ねつつ、そんな言葉たちをいくつか紹介していこうと思います。


▼「世話になっといて、労いの言葉一つかけられない人には、誰もついていかない」

ふと思い出すたびに胸が痛むのがこの言葉です。話は大学時代に遡ります。

わしは芝居のサークルに入っていたのですが、そこで裏方のあるセクションのリーダーをやることになりました。「制作」と言って、芝居のチラシを印刷に出したり、チケットの販売をしたり、予算を管理したりと、まあこまごまとした業務の多いセクションでした。

ある日、とある事情から追加で紙の作りものをして、手作業で折り込んで封筒に入れるという、割とめんどうな作業をやることになりました。それも大量に行わなければならなかったので、他のセクションのスタッフにも手伝ってもらって、朝から晩までかけてなんとか終わらせました。その時に、同じ制作セクションでわしの下についてやっていた同期の女性から言われたのが、上述の一言であります…。

まあ、本当にその通りというか…。酷いもんですね。「やってもらって当たり前」とか、そこまで駄目な考えではなかったものの、当時は「ありがとう」と言葉で示すことがものすごく苦手だったし、代わりに、お返しに、お礼に、何かやってあげようとか、そういうマインドが一切なかったように思います。自分の損得や都合ばかり考えていて、相手のことなど思い遣る隙さえなかった。上の言葉を浴びせられたにもかかわらず、結局行動が改まってくるまでにかなりの時間を要したように思います。

ちなみにこの言葉を発した主である女性は、当時から非常に大人というか、自分の挙動によって相手の気持ちがどんなふうに動くかを手に取るようにわかっている人でした。当然の如く大変モテましたが、同じ年代の学生などは相手せず、年上の社会人と付き合っていたんじゃないかな。そんな彼女からすれば、上の言葉はどうしようもなさすぎるダメ男に対して、憐憫の情をこめて発した一言だったに違いありません…。


▼「見えないからできない、じゃなくて、何でも挑戦してみようと思います。わたしには、できないことは、何もない」

テレビのドキュメンタリー番組から。パラリンピック出場を目指し、毎日水泳の練習に打ち込む全盲の少女が、ドキュメンタリー最後のシーンで言った一言。

水泳を始めたばかりのころは、あまりの恐怖で飛び込み台から一歩も動くことができず、震えながら泣いていた彼女。厳しい練習に耐え、時には挫折を味わいながらも、よき理解者である母親と一緒に頑張ってきた3年間。その集大成として迎えたパラリンピックの国内選考会で、彼女は基準タイムを大幅に上回る素晴らしい記録を残しました。次はいよいよ世界へ。新しいステージに挑戦する彼女が、カメラに向かって力強く言ったのが、上の言葉でした。

手元のティッシュが尽きるくらいの号泣っぷりで視聴いたしましたが、これは本当に心を打たれました。胸を張り自信をもって、「できないことは、何もない」と話すその姿勢に感じ、同時に、自分ができないこと、やりたくないこと、それら一つ一つをいちいち周囲の人や状況のせいにして正当化しようとする言動、つまり自分に言い訳をしている自分自身の態度がとても恥ずかしくなったことを覚えております。

もちろん今でもそういう部分は多々ありますが、そんなときには彼女の言ったこの言葉を大切に思い出し、少しでも彼女の境地に近づくべく、自省しているのでございます。


▼「いいよ〜〜〜〜っ!」

これは、わしに向けてではないのですが、小学校のときに友人が言った言葉です。

教職の資格を取るために大学からやってきた教育実習生が、しばらくの間授業を行うというのは皆さん経験があるかと思います。比較的歳も近くさわやかな先生のたまごたちに接して、淡い恋が芽生えたりするのですよね(笑)。わしが何年生の時だったかもはや忘れてしまいましたが、その年もまた実習生が数名やってきて授業を行いました。実習最後の日には体育館で全校集会が開かれ、実習生がひとりずつお別れの挨拶をします。その時に、ある男性の実習生が挨拶の中で一言、「僕が無事に先生になれたら、またこの学校に戻って来てもいいかな?」と言ったんです。そしたら、わしの隣にいた友達がすかさず、体育館中に響き渡るくらいの大きな声で、叫んだんですよね(笑)。

叫んでからほんの一瞬、しーん…となって。その後、先生も子供たちも一斉に「おおおおおおおっ!」と。当の実習生は挨拶の後、ステージを駆け下りて彼を抱きしめておりました(笑)。真心から発せられた言葉というのは、たとえ拙いものであったとしても、虚飾に満ちたどんな言葉にも増して人を動かす力がある。当時のわしはもちろんそんなことを考えていたはずもなく、単純に「こいつ、すげえな(普段はろくでもないけど)」と思っていたくらいでしたが、大人になってだんだん心が汚れてきたあたりから、「やっぱりそうだよな…」と、ボディーブローのようにじわじわと染みてきている。そんな名言でございます。


こうやって文字に落としていきながら、上に挙げた言葉たちを反芻すると、自然にその言葉と出会った当時のことが思い出され、甘酸っぱかったり、苦々しかったり、いろいろな感情も一緒になってよみがえってきますね…。回春効果がある記事です(笑)

ずいぶん自己満足な内容になってしまったかもしれませんが、今回は以上です。それではまた来世〜〜。
posted by サイダー at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

子育てについての雑感


おつかれさまです。2年ぶりくらいに、ブログのデザインをいじってみました。前のペンギンがいる赤と黄色のデザインのもよかったのですが、さすがに飽きてきたので、さわやかな緑と白を基調としたこちらのデザインに。いかがでしょうか。

上のニュースについて。燻り続けるアフガニスタンの争いの火種。アメリカは軍の増派を表明していますが、この国が真に平静を取り戻し、多国籍軍が役目を終えて撤退するまでのゴールイメージはそこにあるのでしょうか。憎しみの連鎖が始まり、アメリカの行いが第二第三のタリバンを生むスパイラルを深めているだけなのに、一度介入すると容易に後には引けない。そういうことではないのでしょうか。

さて。今回も自分の近況が主な内容になってしまい、恐縮ですがお付き合い下さい。

昨年末に長女が誕生したことは、このブログでもちょこっと触れさせていただきました。おかげさまで元気に成長し、抱きかかえるたびに「この前よりも重くなっている気がする」と感じます。近頃やっと首が据わってきたようですが、油断するといきなり頭が変な方向にガクッといってしまうので、気をつけねばなりません…。

自分に子供ができてみると、当然のことながら、子供ができる前と考え方が変わったことや、新しく考えるようになったことがいくつか出てきます。そういう頭の中の変化について、自身で反芻しつつ少し書いてみようと思います。

@ 子育ては大変である

子供ができて生まれた思考の変化、その中でも一番大きなものと言えば、これに尽きます。子育ては大変です。「そんなこと言われなくたってわかっているよ」と言われてしまいそうですが、大変であるということが身をもって理解できました。最近はあまりなくなったのですが、生まれてきて最初の頃はとにかくよく泣いて、どんなに夜遅く、こちらが疲れていてもおかまいなしでした。機嫌を取ろうと抱きかかえてあやしても、泣きいらだつ。ようやく寝静まったかと思って、布団に寝かせると1分も経たないうちにまた泣き始める…。毎晩毎晩そんなこと繰り返しで、正直な話、大声で泣いているわが子を見て、ついカッとなって苛立ったこともありました。

日中も、寝ているときはもちろん、起きているときも、ひとりにはできないので絶えず傍にいる必要があります。落ち着いているときは本を読んだり、パソコンを触ったりしていられるのですが、機嫌は箱根の山の天候のようにころころと変わるので、いきなり泣き出すこともしばしば。そうすると、寝かせたままでは泣きやんでくれないので、こちらの用事は後回しにして抱いてやらないといけない。楽をして抱いて座ろうとすると、手抜きがばれるのかまた泣き始めるので(笑)、立って歩きまわりながら落ち着くのを待つ。そんなことをしているうちに30分とか1時間があっという間に過ぎていきます。

外に散歩に連れていこうにも、暑さ寒さを考えてそれなりの身支度をしてあげなければならず、外に出るまでが意外と面倒くさい。いざ外に出ても、人ごみの中でベビーカーを押して歩くのはなかなかに気を張る必要がある作業で、家に帰ってくるとかなりの疲れを感じることがあります。風呂に入れるときでも、自分のことは後回しで子供の面倒をみることになります。風呂から出てしっかりと身体を拭いて、服を着せて、かぶれ止めのクリームを塗って…とやっていて気がついたら、自分は風呂に入ったんだか入っていないんだかわからないくらいに身体が冷え切っていたこともありました。

なんてことを大変そうに書いていますが、子供の世話をやっているのはほとんどが妻で、わしは平日の朝や土日ぐらいです。それに加えて食事を作ったり洗濯をしたり、買い物にも行っています。とても大変なことです。子供を抱きかかえるときに負担がかかったのか、彼女は腰を痛めてしまいました。それでも、泣いている娘をあやすために、抱きかかえるのをやめるわけにはいきません。娘はこれからどんどん大きくなって体重も増えていくでしょうが、だからと言って放棄できないのです。

ふと、毎日の子育てを、自分ひとりでやらなければならないとしたら、いったいどういうことになるか考えてみます。子供の世話を第一に行うとして、自分のこともしなければならない。生きていく上でお金を稼ぐために働く必要もある。細々とした雑用もあるでしょう。夜、布団に子供を寝かせつけながら、自分も疲れ果ててそのまま寝てしまうような暮らし。いつ、どこで、何をしようにも、絶えず子供のことが頭の片隅にちらついているような暮らし。友人知人とゆっくり酒を酌み交わしたり、のんびり舞台を見に行ったりするゆとりなど、物理的にも心理的にも持ちえないのではないでしょうか。

そんなわけで、改めて、子育ては大変である。だから自分が頑張っているということを言いたいのでは毛頭ない。世のすべての母親、特に、何らかの理由によって独りで子供を育てている「シングルマザー」と呼ばれる人たち、その毎日の奮闘に頭が下がる。また育児を理由とする時間短縮勤務という働き方を選んだ女性に対して一時期、「中途半端に働いて…」という思いを抱いていた自身の不明を恥じる。もしかしたら職場よりもきつい仕事をしに、これから出かけるのかもしれないからである。そして、ワイドショーで躍る「幼児虐待」という言葉と共に面白おかしく報じられる事件に対して、「人格の伴っていない愚かな親がこういう事件を起こす」と断罪していた自身の不明を恥じる。個人差はあれ、子育ては心身に疲労を蓄積させるものであり、その蓄積と回復との微妙なバランスのずれにより、悲しい事件を起こしてしまう可能性を誰しも持っているからである。正直自分だって、どうなるか分からない。

とにかく今は、嫁の足を引っ張ることのないよう、尽力してまいる所存です…。

A 待機児童と子育て支援

もう一つ最近考えるようになったのが上記について。うちは共働き世帯で、今は嫁が育児休業中で、子育てに専念できることになっている。ありがたいことに、給料も通常支給の何割かがもらえている。ただしそれも今年いっぱいまでの話。そのタイミングを向えるに当たり彼女は、会社に戻って働くか、辞めるのかの選択を迫られることになる。

働く場合には、このままでは日中子供の世話をする人間がいなくなってしまうので、何らかの措置を講じる必要がある。一つには、わしが育児休業を取得する、もしくは会社を辞めて主夫となるという選択肢がある。あるのだが、育児休業ではその場しのぎに過ぎないし、辞めるというのは現在の生活の維持と今後の生活のための貯蓄を考えた時に、明らかにナンセンスである。

わしか嫁の両親に、日中世話をしてもらうという選択肢もある。ただし、双方地方に住んでおり、特に嫁の実家には家業などもあるので難しい。わしの両親はまだ可能性があると言えるが、向こうの土地や家をどうするのか、こっちでの住まいをどうするのか、何より彼らがそんな生活に納得するのか、まったく未整理である。

順当に考えれば、子育てに関するその道のプロ、保育園に預けるという選択が最も可能性があり、妥当であるようにも思われる。しかしながらそこで、よく言われる「待機児童」の問題が出てくる。保育園に入所する資格があるのに、入りたくても入れず、空きを待っている状態のことである。数年前から国が主導して、待機児童数を減らすために保育園の許認可の緩和などの施策を行っているものの、その進捗度合いは都道府県によってばらつきがある。そして何を隠そう、今わしらが暮らしている場所は、待機児童数に関しては全国でトップクラスなのであった…。

今年中になんとか入ることができればよいのだが、そもそも入ることさえ難しいのであるから、生活にうまく適合する立地やサービス内容、料金など、さまざまな条件にぴったり折り合うということは全くと言っていいほど期待できないのではないか。どこかで妥協する必要が出てくるのだろう。

そして万が一入ることが出来なかった場合。このときはもしかしたらわしが育児休業をとることになるかもしれない。確か最大半年間取得できたはず。その間になんとか保育園に入れることが必要になる。それでも保育園に入れなかったら…、考えたくはないが嫁に仕事を辞めてもらうこともいよいよ視野に入れる必要が出てくる。彼女のもたらす収入が丸ごと無くなってしまうというのも、我が家にとってはかなりの痛手であるのだが。

最初から彼女が「辞める」という選択を望むのならば、それを尊重するまでのことだが、おそらくそんなはずはない。家では子育ての合間を縫うように英語の勉強などを続けているし、何を隠そうビジネス・スキルという点で見れば、むしろ彼女の方がわしよりも余程高い能力を持っているのであった…(謙遜ではなく)。そんな彼女が「仕事を続けたい」と言った時に、それを駄目だという権限は、少なくともわしにはないし、できれば今後も仕事を通じて、お互いを高め合っていく、良い意味での緊張関係を保ちたいとも思っている。

ではどうしたらよいのか…と、そこまで考えつつ、結局いつも結論をみることはない。「まあこれまでの人生も運が味方してくれた部分が大半だから、今回も意外とあっさり保育園に入れるのではないか」という、現実逃避と紙一重の妙なポジティブ思考が湧き上がってくることもある。

日々の子育てという、やや刹那的・即時的な作業に加えて、これからの子育てをどうしていくかという、長期的な計画も行わなければいけない。娘の寝顔や泣き顔を見ているうちにあっという間に過ぎていく24時間の積み重ねに、気がついた時に押し潰されていたということのないように、今のうちから突っ込んだところまで考えなければいけない。いけないのだが、なかなかできない。できないうちに時間が経つ…。断ち切るタイミングを決めるのは、自分次第である。


以上、明らかに子供ができる前には考えなかったことをいろいろと考えるようになった昨今でございます。同様の状況に置かれている歳の近い友人知人もちらほらいますが、彼らもやはり同じように考えたり、悩んだりしているのでしょう。嫁は毎日インターネットの子育て掲示板のチェックを欠かしません。日々の投稿は膨大な数に及び、子育ての後輩に向けた役に立つアドバイスもあれば、愚痴とも何とも似つかぬ独白もあるよう。

子育て。とかく、大きなテーマです。
posted by サイダー at 03:29| Comment(3) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

久々に、五月雨式に雑感


暖かくなってまいりました。ありがたいことです。花粉や黄砂は飛びまくっているようですが。

上のニュースについて。また負けてしまいました、サムライ・ジャパン。日本では相当盛り上がっているこのWBCですが、今一つ流れに乗れていない私であります。日本は韓国に勝ったと思ったら負け、それでいて強豪キューバには快勝し、でもまた韓国に負け、それでまたキューバと対決…と、ファンは一喜一憂。どうも「敗者復活」的要素が多すぎるのが釈然としない。仮にこれで優勝して「世界一強い」ということになったとしても、あんまり腑に落ちない感じがするんですよね…。

さて。タイトル通り五月雨式に参ります。中身も相当ばらつきがあります(笑)

▼日テレ「バンキシャ!」問題

ついに久保社長が引責辞任となりました。社長が辞めておきながら番組は存続ということも考えられないので、おそらくこの番組も打ち切りになるのではないでしょうか。それにしてもこの問題、今回ものすごくセンセーショナルに報じられましたが、テレビ番組制作に携わる多くの人たちにとっては、とても他人事とは思えない恐ろしい事件だったと思います。

「裏をきっちり取っていけば、嘘だと見抜ける証言だった」との批判は、自分が制作の当事者だったら決してやすやすと口にすることはできないはず。テレビ(に限らずマスコミ全体)の広告収入が:激減する中、どんどん番組の制作に費やせるお金がなくなっていっています。番組制作の発注を受けているプロダクションも、当然低コストでの制作を余儀なくされる。それは、取材に人的・時間的・物理的なコストを充分注いで番組を作ることができなくなるという問題に直結します。そんな中で、ひとつひとつの事象に対して、じっくりと真偽やウラを検証することが可能かどうか。またそれがきちんと行われているとチェックすることが可能かどうか。

おそらくは「バンキシャ!」の制作チームも、相当費用の面でシビアな状況に追い込まれていたのではないか。今回の事件は、ギリギリで回っているテレビ制作の現場に光を当てると同時に、これが氷山の一角でしかない、下手をすれば今後立て続けにこの手の問題が起こることを予感させるもののように感じます。


▼押切もえ「モデル失格」を読んで

わたくし、気がついたら押切もえさんのファンっぽいです(笑)。その証拠に、買ってしまいましたよ。彼女の自伝?「モデル失格」を!!アマゾンで。しかも中古で(余談ですが、本当のファンというものは、本やらCDやらは2つ買うらしいですね。保管用と、使う用に。そういう意味では中古で買っているわしなどは、「ファン」と呼ぶには程遠い存在なのかもしれない)。

彼女は女性ファッション誌「AneCan」の専属モデルですが、別に「AneCan」を毎号買って穴が開くほど観賞しているわけではありません。雑誌「AERA」やテレビの「アメカフェ」を読んだり見たりしているうちに、がんばっていい仕事をしよう、成長しようとしている様子に心を打たれ、ファンっぽくなったという次第です。要は努力家に弱いのです。

この「モデル失格」も、「AERA」の中で宣伝していたので、これは絶対読まねばと思って、かぶりつくように読んでみたのですが、まあ並の内容でしたねー(笑)。内容が結構重複しており、言いたいことをまとめると3ページくらいに収まってしまいそうな気がしました。ただ、これは良いなと思える部分もありました。ホノルルマラソンに出場することになった彼女が、気が進まないトレーニングをこなすために自分に言い聞かせた言葉。「つらいマラソンを走り終えた自分は、きっとそれまでの自分とは違う存在になっているはず。ゴールの向こうで待っている新しい自分に会おう。そのためにがんばって走ろう」。

意訳していますが、こういう心の持ち方ってすごく良いですよね。肩肘張らない、すごく自然でポジティブなモチベーションの作り方というか。ちなみにわしなども、朝起きて「今日は厄介な仕事がいろいろあって嫌だなあ」と身体と気持ちが重くなることがあるのですが、家を出て歩いているうちに自然と、「これも自分が成長するための良い機会に違いない」と、勝手にマインドが変わっていきます。毎回不思議でしょうがないんですがね。3歩歩くと忘れるというニワトリに性質が近いのでしょうか…。

まあ、そんなわけで、読んでみて下さい「モデル失格」。


▼「機動戦士ガンダム00」がつまらない

TBSで日曜の夕方にやっているアニメ「機動戦士ガンダム00」。あと2回くらいで終了ですが、ここに来て、圧倒的につまらないです。うちの奥さんはこのアニメが大嫌いで、わしは録画してわざわざ深夜に見ていました。「なんでこんなに面白いものが嫌いなのか」と考えていたわしですが、今では何も言えません…。

深く批評する知識と知見を有しておりませんので簡単に書きますが、まず強さのインフレ化が著しい。切り札的な技(機能?)「トランザム」が乱発されすぎて有難みがない。あとはキャラクターの人格がおかしい。みんなどういう思いでこの戦争を行っているのか知らないが、戦争ってそんなもんじゃないだろう、と。特に人間の進化系とされる「イノベーター」と呼ばれる人たちは、どこが進化系なのか良く分からないくらい浅はかな感情に動かされて行動し、むざむざと死んでいっている。そして何より、噛ませ犬的な死に方があまりにも多すぎ(笑)。命を大切にね!

キャラクターが売り物のアニメなので、話が個人対個人に収斂されていくのは仕方ないにしても、せめて「戦争の凝縮された図」が無いと、なんとも浮ついた内容になってしまう。戦争という派手な舞台でやっている喧嘩なので、見ていて白々しい思いがする。

先日、従軍記者も経験している93歳のジャーナリスト・むのたけじ氏の著書「戦争絶滅へ、人間復活へ」を読みました。戦時下の強姦や慰安所の様子が生々しく書かれていました。また、ETV特集の「イラク戦争検証シリーズ」を見ました。米軍によるイラク軍捕虜への数々の虐待事件の検証がテーマでした。まあ暗澹たる気持ちになるわけですが…こういうドンパチの外延にある、けれど本当に戦争の闇が詰まった部分に光を当てるようなエンタテインメント作品って、成立しないものなのかしら。テーマは臓器売買なのでちょっと違うけど、「闇の子供たち」もあんまり流行らなかったし。商業ベースでは「おくりびと」のようなヒューマン路線がぎりぎりのラインなんでしょうかね。

あ、ちなみに「おくりびと」は、わしの地元が舞台となっています。アカデミー賞受賞のときは一気に沸きましたが、これが観光誘致などの実利にまでつながるかどうか。つながってくれればうれしいのですが、どうなるでしょうね。
posted by サイダー at 09:41| Comment(0) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

観劇評 ポツドール「愛の渦」


早いものでもう三月。この間は「もう年末」なんて言っていたような気がするのですが、今度は「もう年度末」。こうやって歳をとっていくのですねえ…。

上のニュースについて。「チベット動乱」から50年。中国の言葉でいえば「チベット民主化」から50年。恥ずかしながら、チベット問題についてはあまり知識がなく…。チベットと聞いて浮かんでくるのは、「ポタラ宮殿に行ってみたい」とか「吐蕃という王朝があったな(世界史の名残)」とか、そういったことばかり。

1959年というと、太平洋を隔てた中米でも当時大きな事件がありました。「キューバ革命」です。こちらもやはり知識に乏しいわしですが、先月だったか、NHKのETV特集で「キューバ革命50年の現実」というドキュメンタリーを見ました。これはキューバを追い続けたアメリカ人ジャーナリストの記録を元に作られた番組です。革命以降現代までの長きにわたり、キューバに生きる三組の人々を通して、「革命が人々にもたらしたもの」を冷静に探っていく内容で、さすがNHKと言える素晴らしいドキュメンタリーでした。なので、ちょっとご紹介。

徹底的な平等を志向し、フィデル・カストロ議長によって推し進められたキューバ革命は、内需拡大・自前の経済発展を目指すも、アメリカの経済封鎖を受けて頓挫。路線変更を余儀なくされ、ドル兌換制度を導入して外貨を受け入れた。「富める者から先に富む」という社会主義の否定にもつながる道を進むことになったキューバ。確かに経済水準は向上したものの、ドルを持つ者と持たざる者の間で、はっきりと格差が生じてしまい、その状況は今日まで続いている。

ある若者は、キューバという国自体に何らの愛情・帰属意識も見いだせず、「自由」とさらなる「豊かさ」を求めてアメリカに脱出できる日を夢見ている。
ある青年は、ドルを手に入れ豊かになった者たちに比べ、一向に恵まれない自分の生活を嘆きつつも、キューバを愛し、信じ続けている。
ある老人は、革命前も、経済危機の時も、外資流入の後も、同じ畑を耕し、同じ農作物を作っていた。世の中がどうあれ、何も変わらない日々。仕事の後に家族と飲むテキーラが何よりの幸せ。経済発展でやっと村に水道が通るという、その数年前に生涯を終えた。

革命修正前は、皆横並びだが、物質的には貧しい社会。
革命修正後は、物質的には豊かになったが、人々の心はばらばらになった。

ドキュメンタリーでは、しかし、革命は成功だったか失敗だったか、革命の修正が良かったのか悪かったのか、何らの結論も出していない。その中で際立つのは、社会がどんなに変わろうとも、自分の価値観からぶれることなく、幸せに暮らし続けた前述の老人の精神的豊かさである。

「あの革命はなんだったのか」というテーマは同時に、「こちら」にいる我々に対しても、本来的な幸せの意義を問うている。その問いかけは、音声でもテロップでも決して現れることはない。丹念な取材の映像を見ているうちに、自然に視聴者自身が気づかされるのだ。

主張を「押し付ける」のではなく取材を通じて「浮き彫りにする」。この番組が、素晴らしいドキュメンタリーだと思える理由である。まさに、ジャーナリズムの神髄だ。

さて。だいぶ前振りが長くなりましたが、先日行ってまいりました。こよなく愛するポツドールの「愛の渦」。期待に応え、キャストを一新しての再演だとか。

見るのはたしか昨年の「顔よ」以来だろうか。「激情」の大ヒット以降、代表の三浦大輔氏も活動の幅を広げ、様々なメディアにも登場するなど、押すに押されぬ人気劇団となったポツドール。わしが行った日もだいぶ早い時間から当日券を求める人の長蛇の列。なんとかチケットをゲットして場内へ。公演に合わせて新聞に三浦氏のインタビュー記事が載ったせいか、会場を見渡すと中高年男性の姿が多いことに気がつく。これは数年前に「夢の城」を見た時とずいぶんな違いで、それだけメジャーになってきたことの証明である。が、今日の芝居の内容に、彼らはどれだけ耐えられるのだろうか…。

「ポツドールの公演は、開演前も楽しい。」そう言ったときに賛同してくれる人は結構多いのではないでしょうか。そう、なぜなら岡村靖幸「セックス」「マシュマロハネムーン」がアレンジを変えつつ延々と流れているのだから。これは毎度毎度ハマるというか、一種のトランス状態に近い感覚になるのですな。しかもこの曲がまたいかにもポツドールらしくて◎。

ですが、ですが…今回の「愛の渦」。正直微妙でございました…。

まずはあらすじ。設定は現代。どこぞの街の一角にある、「乱交パーティー屋」の店内。この日も常連客から初めての客まで、次々と客が集まってくる。24時、男女4組が集ったところで、店長からルールの説明があり、その後パーティーの開始が告げられる。とは言うものの、その場には緊張した気まずい空気が張りつめ、男は男、女は女で固まって寒々しい会話を続けるばかり…。その後どうにか状況を打開し、「本題」に入ることができた彼ら。一戦、二戦と回を重ねていくうちに、だんだんと場を支配する空気や人間関係にも変化が生じ始める…。

ポツドールの芝居は、登場人物の言動のディテールに着目して、彼らの習性や、彼らの織りなす関係性を楽しむ「人間観察劇」であるということができる。今回は乱交パーティーが前面に出ているが、結局見せたいのは行為そのものではなく、「性欲」という人間の切っても切れないテーマに直面した際の人間の心の動きである。前作「顔よ」では人間の「美醜」を「踏み絵」として、それに直面する人々の心の内面を描きだしていたが、今回はそれが「性欲」であるということ。細部までしっかりとこだわって、芝居を構成していた点は前回と変わっていない。

ただし、今回つらかったのは「踏み絵」の品数。劇中では「性欲」に絡めて、人間同士の序列が決まったり、醜い部分や弱い部分が垣間見えたりするシーンを何パターンも作っているが、どれもこれも想像の域を出ない展開でしかない。「むりやり」「盛り合わせ」という印象が強く、どうしても途中から飽きが来てしまった。

役者はとても立派である。ベッドの上ではまさに体を張って、我を忘れんばかりのフルパワーの演技をしつつも、相当緻密に場の空気を組み立てる演技も行うという、いわば「左を見ながら右を見ろ」くらいのことを要求されているにも関わらず、きちんと役を作ることができている。初めてポツドールの芝居を見る人であれば、「これはとんでもないことをとんでもないレベルで行う劇団だ」ということにもなろう。しかし悲しいかな、「夢の城」からはじまり「激情」「人間失格」「女の果て」「顔よ」と見てきてしまうと、もはやそういうものが眼前で繰り広げられても、どうしても慣れが生じてしまう部分もある。

意識しているにせよ、していないにせよ、いつも期待以上のものを求めてしまうのであるから、観客というのは残酷な存在だなあと、つくづく思う。

とは言え、ポツドールを見たことがない方には「是非」とおすすめできる舞台です。そもそも「こんな劇団がある」ということを体感できるだけで人生ちょっと豊かになります(笑)。15日までやっていて、当日券もあるようなので、足を運んでみてはいかがでしょうか。ただし、相当早く劇場に行って、並ぶ覚悟が必要ですが…。

それでは、今回はこの辺で。しかしなんだかメインがキューバ革命だかポツドールだかわからない記事ですな…。


ポツドール「愛の渦」
2009年2月19日〜3月15日 
新宿 THEATER/TOPS

脚本・演出 三浦大輔

キャスト

米村亮太朗

古澤裕介
井上幸太郎
富田恭史
脇坂圭一郎
岩瀬亮
美館智範

江本純子
内田慈
遠藤留奈
佐々木幸子
山本裕子


スタッフ

照明 伊藤孝
音響 中村嘉宏
舞台監督 矢島健
舞台美術 田中敏恵
映像・宣伝美術 冨田中理
小道具 大橋路代
衣装 中西瑞美 
写真撮影 曵野若菜

演出助手 石井友章
制作 木下京子
広報 石井裕太
運営 山田恵理子

企画・製作 ポツドール
posted by サイダー at 04:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 舞台演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

「未来をひらく福澤諭吉展」についての雑感


おつかれさまです。ちょっと間が開きました。最近寒いですねー。今にも雪が降りそうです。

上のニュースについて。街中で何かにつまずいて転ぶ、烏龍茶を「とりりゅうちゃ」と読む、社会の窓が開いている…。この世に恥ずかしい出来事は多々あれど、これほど屈辱的なことはそうそうないのでは。まんまとDVDの万引きに成功したと思ったら、まさか小学5年生程度の少年に尾行されてお縄につくとは…。「武士の情け」という言葉が現代日本でも通用するならば、せめて警察の方は、犯人に捕まったきっかけを教えないであげて欲しいですね。

さて。今回は舞台ではなくて、展覧会を見てまいりましたのでその雑感を…。

タイトルでも書いておりますが、見たのは東京・上野の東京国立博物館で行われている「未来をひらく福澤諭吉展」。福澤展に興味のある大学時代の友人らと連れ立って、春爛漫の遠足気分で行ってまいりました。すでに1月から始まっており、主催にフジサンケイグループが入っていることもあるので、それなりに認知もされているのではないでしょうか。

週末で混んでいるかなと多少不安でしたが、実際は「それなり」で、閑散としているわけでもなく、すし詰め状態でもないほど良い状態でした(余談ですが、かつて「ゴッホのひまわり」展を見に行ったときは本当に圧死するかと思いましたね)。客層も若い人からお年を召した方までさまざまでしたが、やっぱり年配の方が多かったかな。皆さん慶應義塾出身の方なのでしょうかね。

さてうちらはと言えば、特に福澤諭吉に詳しくもない素人集団なわけですが、なんとありがたいことに!何を隠そう福澤研究の第一人者たるお方が大学時代の先輩でいらっしゃいまして、当然の如くこの展覧会にも関わっており(というかどっぷり漬かっている状態)、我々素人様ご一行のアテンドをしてくださることになったのでありました。おお何と言う天佑。

プロのガイドを味方につけた我々は、スターを取って無敵状態のマリオの如く、意気揚々と館内を進むのであった。展示内容はざっくり言うと、福澤諭吉個人の生涯や家族との営み、慶應義塾で彼が目指した理念や実際の義塾の様子、慶應から巣立って地方で福澤イズムを実践すべく頑張った先人、福澤と政府の関係、福澤の海外へのまなざし、福澤や彼の縁者が収蔵していた美術品、などのテーマで括られており、多角的に福澤諭吉を知ることができる。単純に年表を追うような展示もあるけど、テーマ・オリエンテッドな展示の方が、見せたいものもビビッドに伝わるし、良いですね。

それにしても、専門家の解説があるとわしのような行間の読めないボンクラでも理解が深まる。たとえば目の前に「福澤が北里柴三郎の病院に宛てた怒りの書簡」があっても、普段なら「ふーん、じゃあ次」で終わってしまうのだが、今回は書簡が書かれたきっかけや、そもそもの福澤と北里の付き合いの始まりなど、史料の「奥行き」を語ってもらえるおかげで、北里に対する福澤の期待や激励の思いが伝わってくる。得られる情報の濃度がまるで違うのである。

展覧会も演劇も、これまで一人で行くことが多かったのですが、思えばなんともったいない時間の費やし方をしたものだろう。さすがにその世界の第一人者に毎回お願いするわけには行かないけれど、やはり誰か、それなりに知っている人と一緒に見るのが賢明でしたね。いや、もったいないことをした…。

上記の「怒りの書簡」や「福澤と勝海舟の喧嘩」などいろいろと面白い展示が多かったけれど、特に印象に残っているものがふたつ。ひとつは慶應義塾の設立理念として掲げられた「気品の泉源、智徳の模範」という言葉。義塾を「気品の泉源」として、「智徳の模範」となるような人材を社会に輩出していきたいという福澤の思いがこめられています。当時この言葉を掲げて社会に向き合うその姿勢に感ずるところも大きいのですが、なんと言っても声に出して読んだときに凛と響く、この言葉そのものの持つ強さ、美しさにやられてしまいました。恥ずかしながら、「福澤はこんな素晴らしいことを言っていたのか…!」と。「好きな言葉」なんてものは特になかったわたくしですが、今後問われれば即答でこれです(笑)

そしてもうひとつ印象に残っているのは、福澤の死を知った市井の一女性が、遺族に対して宛てた一通の書簡。福澤は男尊女卑が当たり前の時代にあって男女の平等を説いた人であり、それゆえ彼の死を知った世の女性たちが、こぞって葬儀に参列したと言われています。別にそれ自体はどうでも良くて、大事なのはその女性の書いた文章です。中身は女性の地位向上に貢献した福澤の死を悼むものですが、文中に何度も、「ご遺族の方の無念さはいかばかりかお察しする」「葬儀で慌しい折に、このような手紙を送って申し訳ない」「本来直接仏前に参るべきところ、手紙を送るだけで申し訳ない」という記述が出てくる。自分のことをどうだこうだと言うのではなくて、(おそらく面識もない)遺族たちを慮りながら、心をこめて手紙をしたためていることが、文章から滲み出るように伝わってくる。弔事はもちろんですが、そうでなくとも「手紙とは本来、かくあるべし」と思い、深く心に残ったのでした。

ふと我が身を振り返れば、メールでも電話でも、自分の用件だけを一方的に伝えることのなんと多いことか。「〜〜になりましたのでよろしくお願いいたします。」「〜〜していただけますと幸いです。」という具合で、表現は丁寧だけれども、相手への惻隠などというものはゼロに等しい。さらに考えてみれば、仕事をしていて「すごく優秀な人だ」と感じる人たちは皆、相手の立場や置かれている状況に対する深い洞察力を持っていて、実に懐の深いコミュニケーションをしているではないか。

福澤が死去したのは1901年。一世紀以上も前の、名も知らぬ女性の書簡によって、己の未熟さを知らしめられることになろうとは…。本当に「いやはや」という思いである。

先輩に展覧会を案内してもらいながらしみじみと思うのは、「福澤諭吉研究」でも何でも、ひとつの物事を学び究めるということの大切さについてである。どんなことでも、究めれば、教えられる。教えることで、喜んでもらったり、楽しんでもらったり、納得してもらったり、とにかく世の中の役に立つことができる。立派に存在する意義があるのだ。自分など、日頃偉そうなことばかり言ってはいるが、仕事を始めてからこれまでの間に、何か「これなら誰にも負けない」「誰よりも知っている」と胸を張れるものをひとつでも得ることができたであろうか…。道のりは遠い。

以上、なんだか、反省ばかりの感想になってしまいましたが、バラエティーに富んだ展示が楽しめる展覧会ですので、興味があればぜひ足を運んでみてください。3月までやっているようですので。もしかしたら展示を見ながら「己への気づき」が得られるかもしれません(笑)
posted by サイダー at 00:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 自分自身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

タレントブログ炎上・書類送検事件についての雑感


おつかれさまです。「みすず学苑」の電車内の広告が気になって仕方がない今日この頃です。与謝蕪村が合格通知を破って食べている絵が載っているシリーズをご覧になった方はいらっしゃいますかね。あのセンスには素直に脱帽でございます。どこまで広告として効いているのかはともかく…。

上のニュースについて。戦争の主役がロボットにとってかわるという話。自分が子供の頃は、今ぐらいにはそんな世の中になっているという予測もあったような気がします。いずれにせよちゃんと戦闘員と非戦闘員の区別をつけて殺しをやってほしいものです。でないと「ガンダム00」の「オートマトン」みたいなことになりますからね…。

さて。今回気になった、というのか、心を揺さぶられたのはこのニュース。

これまで放置されてきたネットの“暴力”に捜査のメスが入った。お笑いタレントの男性(37)のブログに、このタレントが「足立区女子高生コンクリート詰め殺人事件に関わった」などといった中傷を書き込んだとして、警視庁は5日までに、男女18人を名誉棄損や脅迫の疑いで、書類送検する方針を固めた。警視庁が書類送検する方針を決めたのは、大阪府高槻市の国立大職員の男(45)、千葉県松戸市の男(35)、札幌市の女子高生(17)ら18人。すでに家宅捜索を行い、証拠品を押収したという。(以下略、2月5日付ZAKZAKより引用)

以下、当局の手によって、男性タレントが事件に一切関与していないということが自明であるという前提で話をしますけど、あまりにも悲しい事件が起きたなと思いました。かと言って、こういうことがレアなことなのかというとそんなことは全くなく、「ネット」「書き込み」「逮捕or書類送検」の3点セットで検索するだけで、こんな話が出るわ出るわ。どっかに爆弾を仕掛けたとか、特定の誰かを殺すと言って捕まったりしている事件が本当に多い。

そんな中で、上記の記事でどうして心を揺さぶられたのかというと、二つ要因がありまして。ひとつは、被害者のタレントがよく見ていた「タモリのボキャブラ天国」(名番組です)に出ていた人ということと、もうひとつは、上記引用には載っていませんが、書類送検された人々が言った言葉があまりにもショッキングだったこと。

「まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった」

まあそりゃあ、検察に送致される経験なんて人生ざらにありませんから、そう思うのもわからなくはないですけどね。「あまりにも…」という気持ちになりました。

書類送検された18人の行動を整理すると、ネットで男性タレントが事件の犯人なのではないかという話がまことしやかに流れているのを見聞きし、それを「事実」と信じこみ、その男性タレントのブログに過剰な表現で名誉を棄損する書き込みをしてしまった、という感じですかね。

ネット上の情報は玉石混交あるし、別に嘘の情報を本当と信じ込んでしまったことについてとやかくいう気はしません(現に自分自身がそうなっていることもある)。けれども、そこからどうして、タレントのブログに「人殺し」とか書き込むことに行きつくのでしょうか。あまりにそのタレントを愛していたがゆえに、その気持ちが一気に憎しみへと変化し、ほとばしる思いが書きこみをさせてしまったのか。日ごろタレントを貶めたいと思っていて、チャンス到来とばかりに渾身の思いで書きこんだのか。

まあ以上のようなことはあるはずもなく…。答えは明らかに、別に何の気もなく、面白半分でただ書き込んだというだけの話ですよね。このタレントやコンクリ詰め事件に特に関心を持っているわけでもなく、実体的にも感情的にも、何のステークホルダーにもなりえない立場からの書き込み。それが「まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった」という言葉につながっている。

自分の発言が、発言の向こうにいる人に対してどんな影響をもたらすか、キーボードを叩いている間一切考えることもない。ましてや、「自分の発言の向こうにいる人」が誰なのかすら認識できず、ただ自分の発した言葉は広大なインターネット空間に投げ込まれ、漂うだけとしか思えないのかもしれない。インターネットのもたらす有意義な影響のひとつである「想像力の欠如」が面白いくらいに発揮された事例です。

札幌市の女子高生は、その日すごく嫌なことがあって、むしゃくしゃしていたのかもしれない。もしかしたら自分と同じくらいの少女が殺されるというこの事件に対して、悲しみ、憤っていたのかもしれない。けれどその憤りの詰まった文章を、例えば大好きな彼氏や、両親に見せたら、果たしてどんなふうに思われるか、ちょっとでも考える隙があったか。

国立大職員の男性は、人生の後輩に対して、教育の現場に立つ者の思いを込めた厳しい書き込みをしたのかもしれない。しかしその文章は、自分の妻であったり、子供であったり、職場の同僚に「自分の書いた文章だ」と言って、堂々と見せられるものであったか。

キーボードに手を当てて、モニター越しに偉そうにこの世を俯瞰し、自分の言葉を海に放り込んでいるような感覚での言論を可能にするインターネットは、やはり使い方を教え込まなければ究極に危険な道具になりうる。人類を最も不幸にする発明は、「原子爆弾」でも「進化論」でもなく、この「インターネット」であるような気がしてならない。

かくいう自分だって、書類送検した彼らに対して、ネットの中で上からものを言っているようなこんな文章を書いている。それが下手をすれば、「女子高生くらいの歳で書類送検されるなんて、起訴猶予になったとしても人生終わってる。男10人に次々強姦された方がまだまし」とか「ずいぶん知能程度の低い国立大職員もいるね。脳の異常を見てもらった方が良いんじゃないの」というようなトーンにだってなりうるし、この事件が発生してからすでにネットでそういうことを書いている人たちもいるんだと思う。わしも気分次第ではどうなることか…。

新聞や雑誌などで文章を書くことを生業としている人たちは、自分の文章が世の人の目に触れるまで、いろいろな人に何度もチェックを受ける。事実と違いはないか、行き過ぎた表現はないか、読者を誘導する表現はないか…そうやって何重にも客観性のフィルターを通される中で、自然と文章が研ぎ澄まされていく。書き手も厳しいチェックを意識するからこそ、自分の名前で、誰に見せても通用するものを仕上げようと、努力を怠らない。そのプロセスに一貫して流れているのは、「人に見せて恥ずかしくないものを仕上げる」という文章のプロとしての矜持である。

「オールドメディア」と呼ばれ、この不況もあり凋落著しい新聞・出版業界。どんどん倒産も出てくることが予想されるが、それとともに文章ひとつひとつに懸けるプロの矜持までこの世から失われていってしまっては相当まずいと思う。言論が世に出るプロセスを認識させる仕組みだけはなんとか残しておきたいものである。

最後に。以前もちらっと触れているとは思うけど、これからは物心ついた時からネットに触れているのが当たり前という人たちがどんどん世の中に溢れてくる。現実のリアルな人付き合いではきちんとしているのに、ネット上では制御する存在がないために「想像力の欠如」に陥ってしまう人がいるのが現在の世の中。今後は、生まれながらにネット上で「想像力の欠如」したコミュニケーションを行っている人たちがリアルな場に出てくることが予想される。しかも大量に。

果たして、彼らを制御する術はあるのか。あるとして、我々はそれを持ちえるのか。
posted by サイダー at 01:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月04日

家電についての雑感


2月になりました。わしの周りでは病気で次々と人が倒れていっています。皆さんは大丈夫でしょうか?中国ではこの時期、毎年地味に鳥インフルエンザで人が死んでおり、距離的に近い九州地方なんかも「鳥→鳥→人感染」が起こり得るんじゃないかと、ひそかに心配しているわたくしでございます。

上のニュースについて。大手メーカーの第三四半期決算と通期見通し発表が集中する昨今。日立製作所のみならず、東芝やNECも赤字転落、パナソニックも赤字見通しと、大手電機メーカーは非常に厳しい状況に追い込まれている。今回のテーマは、そんな苦境の各社とも関係の深い家電について。

最近テレビを見ていると、やたらと家電がテーマの番組が多い。「家電芸人」などのキャラ付けまでして、こだわりを語ったり、量販店を巡ってみたり。以前、放送作家の鈴木おさむ氏(森三中のうちの一人と結婚して『ブスの瞳に恋してる』を書いた人、といったほうがわかるでしょうか)がAERAの連載コラム中で、「『アメトーーク』でやった家電トークの視聴率がことのほか良く、こぞって他局も『うちも家電モノができないか』と動き始めている。これからどんどん家電を扱う番組が増えていくだろう。絶えず視聴率を気にして、良いネタがあればそれに便乗するのはテレビの特性である」という趣旨のことを書いていたが、まあそのとおりになった。

テレビ局も不況の煽りを受けて広告収入が低下し、赤字に転落する局も出ている。番組制作費がどんどんカットされていく中で、視聴率が取れるか分からない冒険的な試みをするよりは、「成功例」に乗っかるほうが良い。そして番組で家電を扱うということであれば、それを見る視聴者も家電に興味があるということになるので、メーカーや量販店から広告を引っ張りやすくなるという算段もしているのでしょうね。「番組内で御社の商品を強調して取り上げるので、つきましては…」というバーター交渉も行われているかもしれない。

端的に言うと、そこまでやらないと広告費を引っ張り出せないくらい、大手の家電メーカーが疲弊しているということ。ニュース番組では「赤字と消費低迷に苦しむ大手家電メーカー」と報じられつつ、バラエティ番組では「このメーカーのこの家電が熱い!」と打ち出していくという、ちぐはぐな状況が今後しばらく続くことでしょう。

引越しをしてみて思ったことですが、日本は本当にたくさんの優良電機メーカーがひしめいていると思います。新居に合わせていろいろと家電を新調し、改めて室内を見渡してみれば、冷蔵庫はシャープ、エアコンは日立、テレビと炊飯器は東芝、DVDプレーヤーはパイオニア、照明と食洗乾燥機はパナソニック、空気清浄機はダイキン、パソコンは富士通、プリンタはキヤノン、音響機器がソニー、洗濯乾燥機が三洋…という具合に、ほとんどメーカーがかぶってないことに気付く。

別に意図してばらしているわけではなく、量販店に行って「これが良いな」と思う商品をただ買っているだけなのに、こんなことになっている。しかもそれぞれの商品で断トツのナンバーワン企業があるというわけではなくて、毎度複数のメーカーが候補に挙がっては、長所短所いろいろ悩んだ末に「かろうじて」の差でお買い上げになったり、ならなかったりしている。

そのこと自体はまさに技術大国ニッポンのすごさを感じさせるものではあるが、さすがにもう限界がきているような気がする。電機の分野では日本よりも後発の韓国は、世界に通用するメーカーでは三星、現代、LGくらいしかないと思いますが、得意分野に注力し、それぞれが世界シェアトップクラスの事業を持っている。かたや、高い技術を持ちながら必ずしも圧倒的な分野を持つ企業ばかりではないのが日本。それゆえに量販店など流通サイドとの力関係上、どうしても弱い立場に立たされてしまいやすく、こういう不景気になると一気に苦境に立たされる。最近では特に流通側の再編が進んで、さらに価格交渉力が強まっている現状もあります。

パナソニックが三洋電機を買収するという話は大きく取りざたされましたが、これはいわば、いずれ日本のメーカーが通らなければならない道に、ついに差し掛かったのだと思います。工場や人員を整理しなければならないほどの逆境の中にあって、いかに「攻め」のためにカネを張っていけるか、生き残りを賭けて、経営者には非常に厳しい決断が迫られているのではないでしょうか。
posted by サイダー at 00:49| Comment(0) | TrackBack(1) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

観劇評 パルコ・プロデュース「リチャード3世」


やっとこさ我が家にエアコンも装着され、陣容が整ってきた今日この頃です。

上のニュースについて。この間23回目の優勝を決めた朝青龍。相撲にはあまり関心がありませんが、最近思うのは、朝青龍の悪役への仕立て方や、話題の煽り方を見るにつけ、「相撲のプロレス化」が進んできたなあということですかね。

さて。幸運なことに見たいと思っていた芝居に行けたので、今回も観劇評を書きたいと思います。前回の「パイパー」からそんな経たないうちに演劇ネタ。しかもまだ公演が終わらないうちに。これまでとはえらい違いです。

超人気の劇団☆新感線の演出家であるいのうえひでのりが演出し、看板役者・古田新太が主演を果たす「リチャード3世」を見に、赤坂ACTシアターに行ってまいりました。休日なのにすごい人だかり。「まさかリチャードを見にこんなに!?」と思ったのですが、どうもそれは勘違いだったようで、隣がAKASAKA BLITZなので、そっちの公演を見に来た人たちでした。やたら若い女の子たちが行列をなしており、会場スタッフが「整理番号300番台のお客様は〜〜」なんててんてこ舞いで点呼していました。おそらくはジャニーズのライブとか、そんなのがあったのでしょう。

それに比べりゃACTシアター前で当日券を求めて待っているお客はごく少数。その顔ぶれも、きゃあきゃあ言ってる女子たちを横目に、わしも含めてなんか立ち枯れてしまった古木のような人ばかり…。こっちのスタッフはさぞ御し易かろうね。

さてわたくし、今回はラッキーなことに、当日券にもかかわらず前から8番目、しかもほぼ舞台中央という好座席。当日券でこういう席が空いていることもあるのね。ヒットマンがこの席を背後から狙っているということでもなければ、これはとんでもなく幸運な部類に入る出来事でしょうね。

開場時間まで近場のカフェで時間を潰し、いよいよ場内へ。座席に到着すると、これはとんでもない近さである。飛び散る役者たちの汗まではっきり見えそうな。そもそもほぼ毎回当日券で芝居を見に行くわしが、こんなに前方に座れたことがかつてあっただろうか……。そう、思えば一度だけ、ポツドール「夢の城」をふらふらっと当日券で見に行き、最前列に座らされてとんでもないものを見せられた記憶がある(それはそれで、今思えば得難い経験である…)。あってもそのくらいじゃなかろうか。

前から8番目の席で舞い上がるわしを、さらに有頂天にさせたのは、わしの後ろの列に座っていた御仁の存在である。なんと敬愛する個性派俳優(とお呼びすればよいのか)、梶原善さんが座っているではないか!!

新感線とはつながりも深そうだし、やはり舞台は見に来るのだなあ。そしてプライベートではこんなおしゃれな格好をしているのだなあ。相変わらず、人を食ったような顔をしているなあ(失礼過ぎ)。…などと、何度もチラ見しながら、思う。本当に、日ごろ善行を重ねてきて、よかった。

さて、そんなこんなで幸運がたくさん重なった記念すべき公演のレビューを以下に。例によってネタばれには配慮しますが、どうしても内容には触れちゃいます。

あらすじ。

中世のイギリス。イングランド王位を巡って血みどろの争いを繰り返すランカスター家とヨーク家の争いは、リチャード3世(古田新太)らの活躍により、ヨーク家の勝利に終わる。新しいイングランド王となったヨーク家の長男・エドワード(久保酎吉)は、妃としてランカスター家貴族の未亡人エリザベス(久世星佳)を迎える。妃となった彼女は自分の血族を要職につけ、権力の基盤を固め始める。面白くないのが、ヨーク家の次男・クラレンス(若松武史)や三男・リチャード3世、そして長年ヨーク家に仕えてきた重臣たちである。エドワード王の手前、表面的には友好を装う両勢力。だが水面下では、虎視眈々と王位を狙うリチャード3世によって、血生臭い謀略が少しずつ進められていた…。

感想。一言でいうなら、かなり「がっかりだった」。

劇団☆新感線(今回主催はパルコ・プロデュースだが)の持ち味は、過剰な音と光を観客に浴びせつつ、歌ったり踊ったり、刀を振って大立ち回りしたりと、ダイナミックな演出でお客の心を惹き付けておき、ストーリー上の重大な節目では役者にかっこよく「キメ」の言葉を言わせて、「やられた〜っ」と骨抜きにさせる、そんな「蝶のように舞い、蜂のように刺す」芝居の運び方にあると思っています。

そういう意味で言うと、今回の芝居には「蝶」の要素も「蜂」の要素もまるでなかった。ゼロではないにせよ、ないに等しかった。自分が新感線の芝居を見て得ようとしているある種の「爽快感」というのが、今回は得られませんでしたね。

歌なし踊りなし、戦闘シーンはお約束なので申し訳程度に。それは仕方ないとしても、シナリオ上特に山場も作られておらず、見ている方としては退屈だった。シェイクスピア劇なので、修辞に満ちた長いセリフ回しが随所にあるのだが、そこも見せ場になっていない。それぞれの登場人物はもはや、リチャード3世に消されるためだけに登場しているくらいの存在でしか描かれておらず、肝心のリチャード3世も、どうして彼がこんなに世の中を憎み、王位に執着しているのかが見えてこない。身体的なコンプレックスを象徴させる顔の痣や背中の瘤、足の不具合も、「これがリチャード3世です」ということを示すためにとってつけたようなお飾りでしかない。また、彼の人格形成に大きく関与していると思われる実の母親とのやり取りも、全体のパーツとしては随分と淡泊な描かれ方で終わった。

舞台終盤ではリチャード3世が落ち目を迎えるわけだが、そのシナリオの運び方にしても、すべてがあまりにも唐突。特にラストシーンは、「えっ、これで終わりなの?」という印象を持った人が大多数だと思う。これまでの展開で披露された内容が、あまりにも消化不良のまま終わってしまうからである。

悪を描いた作品ならば、これまでの新感線の「朧の森に棲む鬼」とか「野獣郎見参」とかのほうが遥かに見ごたえがあり、しっかりと「悪」のキャラクターを描き出せているような気がする。今回は、「リチャード3世って、いったいなんだったの…??」ということで終わってしまいかねない。哀れなのか、愛着すら感じるのか、はたまたとことん憎むべき存在なのか、まるでわからないのである。

最後に、さすがに悪評ばかり書くのもあれなので、よかった点を書いておきます。まず、衣裳。衣裳だけで相当笑いを取っておりました。あとは時代設定として、現代を織り交ぜているところ。携帯電話で密通していたり、テレビの中継入りで演説したり。面白かったのは、マックのハンバーガーを食い、パソコンでひたすら「死ね死ね死ね…」と書き込んでいるリチャード3世の姿です。場合によっては、権力の座とかは本当はどうでもよくって、ちょっとしたことがきっかけとなってとにかく誰でもいいから人を殺そうと思ったという、いわゆる「現代の通り魔殺人者風・リチャード3世」の方向に思い切ってシフトしてみても面白かったんじゃないでしょうか。

…という感じで、いくつかの幸運に恵まれた割に、肝心の芝居は「うーん」というような内容でした。これで幸運と言えるのかどうか。公演はまだ続いていますが、金額も安くはないので、そこまでおすすめはいたしません。

それでは、今回はこの辺で。


パルコ・プロデュース「リチャード3世」
2009年1月19日〜2月1日
赤坂ACTシアター

作 ウィリアム・シェイクスピア
演出 いのうえひでのり

キャスト

古田新太
安田成美

榎木孝明
大森博史
三田和代
銀粉蝶
久世星佳

天宮 良
山本 亨
増沢 望
西川忠志
川久保拓司
森本亮治
逆木圭一郎
河野まさと
村木 仁
礒野慎吾
吉田メタル
川原正嗣
藤家 剛

久保酎吉
若松武史

ほか
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2009年01月19日

最近の若者に対する言説についての雑感



09年第2回目の記事でございます。今年もこのくらいのペースで更新していきたいと思います(自分への楔)。

上のニュースについて。日本より一足先に、台湾ではやっちゃっております。この政策が良いか悪いかは別として、まだあちらのほうが機動的とは言えるのでしょうね。

さて。

ちょっと前の東洋経済の特集のテーマが「若者」でした。酒を飲まない、安定志向など、最近の若者の特徴や行動の傾向を解説し、マーケティング向けに若者の攻略法のようなことも載っていました。読んでいてなかなか面白かったです。

アジアの大学で教鞭を執る大前研一氏は、今の日本の若者は外国と比較して「やってやろう」「挑戦しよう」という気概がなくなってきている、国家にとって大きな問題だと憂う。確実に一定数は優秀な学生がいるものの、日本からの海外留学生の数は年々減少しているようです。

かたや『希望格差社会』『婚活時代』などの著者である山田昌弘氏は、かつて製造業を行う大企業が生産拠点を次々に海外に移したことや、ITが進化したこと、周辺業務のアウトソース化が進んだことによって、国内で専門的職能を要求される雇用が創出されにくくなったと指摘。仕事のパイが減ったにもかかわらず、いい歳をした大人たちがある程度のポストに居続けたことにより、若者には(ルーチンワークなど)それほど職能の必要とされない仕事ばかりが供給されてしまっているとして、彼らをかばう。

ふたりのコメントからは、社会構造の変化によって不利な状態が形成され、常態化し、さらに経済情勢の悪化によって、精神的にも、物理的(金銭的)にも、身動きが取れず縮こまった状態に追いやられてしまった若者像が浮かび上がってくる。実際にフリーターや派遣労働に従事する若者の数は2000年に入ってから激増しているようだ。それに伴い、若者の可処分所得は年々減少し、当然のことながら消費も減少。支出の内訳のかなり大きな部分を「預貯金・投資」が占めているという実態がある。

個人レベルの実感値としても、理解できる部分は多分にある。まず、自分自身がおそらく「若者」に該当するであろう年齢だが、あんまり消費の意欲がない。特に自動車。最近こそ、子供もできたので、移動の手段として購入しようかと考えたりするものの、あくまで「必要性に迫られて」検討するのであって、そうでもなければ欲しいとも思わない。しかも毎度タクシーを使って移動するほうが、トータルで見ればよほど金がかからないなどという話を聞くと、「じゃあ、いいか」となる。こんなもんです。

あとは、いまだに大学の後輩などからOB訪問を受けたりもするけど、やはり彼らも「守り」に入っているなと感じることが多い。特に最近はこういう経済情勢だからなのかもしれないけど。自分たちがどうなってしまうのか、戦々恐々としているようでした。皆素直で、とても優秀そうなかんじがするのですがね。

では、こういう若者の現状は、果たして問題なのかどうか。面白いことに、古代エジプト文明のころの古文書を解読していったところ、「最近の若いもんはなっとらん」という文章が書かれていたそうです。上の世代から見た若い世代というのは、いつの世の中でも「困ったもの」らしい。そういう「大人たちの基準でのエゴ」などでなく、本当の意味での問題が横たわっているのかどうか――若者たち自身が今の状況に悲鳴を上げていたり、このままでは国家が立ち行かなくなってしまったり――を考えた場合の話ですが、やはり、今の状態はまずいのかなと思います。

ここで東洋経済の特集に戻りますが、「機動戦士ガンダム」などのアニメ監督である富野由悠季氏はインタビューで、「変わるべきは若者たち自身ではなく、若者を取り巻く環境であり、上の世代である」と強く訴えています。これはまったく同感です。

上述の山田氏のコメントにもあるように、制度的な変革も重要ですが、上の世代の果たす役割は、若者の意識・行動形成に直接的に関わるため、さらに重要といえます。しかしながらここが、どんどん機能しなくなっている。たとえば、「若者は酒を飲まなくなった。酒を飲みながらコミュニケーションをしなくなった」という状態について。これはあるマンガの受け売りですが、ビールの売り上げが落ち込んで、替わりに安いまがいもの「第三のビール」がどんどん売れている世の中で、どうして若者がおいしく酒を飲もうとするでしょうか。「うまい酒」がなんなのか、上の世代が下の世代に伝えることを放棄しているのではないか。「消費をしなくなった」という話も、不景気ムードになると一気に生活防衛一色に染まる消費行動を見て、どうして若者が積極的に消費しようと思うものでしょうか。

親の背中を見て子は育つもの。若者の今に原因があるのだとすれば、結局それは上の世代がどこかで種をまいていたのだということ。今から彼らを変えることは容易ではないと達観しつつ、さらに続く世代をなんとか軌道修正していくために、とにかくまず上に立つ世代が歯を食い縛って変わっていくしか道はないでしょう。

またしてもマンガの受け売り。連載終了後数年経ってもなお輝きを失わない名作『HEAT』(武論尊原作、池上遼一作画)の主人公・唐沢辰巳の名台詞より。

「親が強けりゃ、子は迷わねェ」
posted by サイダー at 01:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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